新自由主義とは、結局は帝国主義の別称ではないかーそういう疑念を長年抱いてきた。
漠然とした感慨にすぎなかったが、柄谷行人さんの「世界史の構造」「帝国の構造」(2冊とも岩波現代文庫)を読んで、わたしの山勘も的はずれではないと知れた。
マルクスは資本主義を生産様式から分析していたと柄谷さんはいう。
しかし、柄谷さんは交換様式という観点からアプローチしてゆく。
これは、タイトルどおり、レヴィ=ストロースを始祖とする構造主義の手法を導入したものだ。
この視点から柄谷さんは、太古の部族社会から世界の四大文明、ギリシア・ローマを経て、現在の新自由主義まで、噛んで含めるように解析してゆく。
カント、ヘーゲル、マルクス、フロイトを援用しながら世界の政治、経済、宗教、文化を鳥瞰的に説き明かしてゆくのだから、歴史=大きなものがたりの様相を呈しているテキストである。
柄谷さんが理想とするのはカントの論文「永遠平和のために」だ。
これを、いわばお花畑と批判したのがヘーゲルであり、1990年ごろのホワイトハウスの要人たちは、ヘーゲルに追随した。
この点を、柄谷さんは克明に批判する。
カントは「永遠平和のために」のなかで、武器を棄てよ、仮想敵国を想定して軍拡に勤しむことは破滅行為と戒め、世界連邦を呼びかけている。
つまり、このハト派ぶりを、ヘーゲルはお花畑的と非難したわけである。
しかし、カントが当該論文をかいたときはナポレオンがヨーロッパで覇権を振るおうとしていた時勢と知れば、カントの主張は俄かに世紀を超えたアクチュアリティを発揮してくる。
永遠平和と世界連邦は、カントが至高の価値を置く理性最善の顕れなのであり、じつはだれもが薄薄気がついていることなのである。
人類はその長い歴史のなかでカントのいう至高の理性を、実現化している。
第一次世界大戦後の国際連盟、第二次世界大戦後の国際連合、さらに日本国憲法がこれに当たる。
交換様式に当て嵌めれば、犠牲者を多く出した世界規模の戦争とその反省からくる平和志向が互酬関係になっているのだ。
わたしは人類の歴史はフーコーの振り子さながらに右左に揺れ動いていると感じていたが、これもそうそう誤っていなかったとおもった。
柄谷行人さんは第三次世界大戦の危機を予感している。だから、カントを回避の水先案内人として示唆しているのである。
実際、フランスのマクロン大統領はウクライナへの派兵を口にしたし、英国のスナーク首相はこくみん徴兵制回帰を選挙公約にし始めた。
当然日本人にとっても対岸の火事ではない。
ただ現在の憲法を護持するかぎり、自衛隊が派遣されることはない、集団的自衛権が強引に適用されなければ…。
憲法9条は平和を護る盾という認識があるが、そうではない。
世界で共有すべき究極のツールではないかとおもわれる。
「永遠平和のために」は、光文社古典新訳文庫のロングセラーであり、平易明快でとても読みやすい。