「明暗」は、何度よみかえしても失敗作だとおもう。
谷崎潤一郎が、「老爺の歩み」と批判したのは正しい。
漱石が登場人物たちの心理を過剰に解剖したために、小説の運びが遅滞、渋滞しているからである。
にもかかわらず奇妙に惹かれるものがあるのはなぜか?
それは柄谷行人さんの漱石論をよむと了解されてくる。
「明暗」は、漱石はじめてといってよいフェミニズムが出現した作品であり、また格差とそこからの社会主義を射程に入れた作品でもある。
それまでの漱石作品にみられなかったポリフォニー=多声が反響している。
しかしそれだけでは大正の思潮に色目をつかった風俗小説になってしまう。
根底に、漱石作品に通底した「生の原形質」が脈打っていると柄谷さんは指摘する。
それは、「夢十夜」で、酒でいえば濃い原酒として描かれた、弟子の内田百閒が、「先生の本質はすべて『夢十夜』に出ている」と看破した、存在の根底でわれわれを脅かす薄気味悪いなにか、だれもがそこから逃れられないなにかである。
言語化するのが困難な、意識の底を流れる、死に注がれる一筋の川のようなものである。
カントが「もの自体」と呼び、マルクスが「疎外」と分析し、フロイトが「超自我」と呼んだものと同質のものだろう。
それは、「嘔吐」のサルトルが吐気としてイメージ化し、埴谷雄高が「自同律の不快」と独自に言語化したものとも重なってくる。
70年代ならまだ口にされていた実存の不安である。
若いころの江藤淳は、上記のことばよりもっと分明に文章化している。
「生きていることが呼吸するように楽なひともいれば生きていること自体が苦痛だというひともいる」
江藤淳は後者だったからこそ漱石にじぶんを仮託したのだ。
生来はとてもデリケートなひとだったとおもうが、漱石は満身創痍で生き切った。
生の根源の不安から生涯眼を背けず、それをことばとして小説に滲ませた漱石は、ドストエフスキーやカフカに匹敵する、にんげんの不可解な業を追及した希少な作家であったとおもう。
カント、マルクス、フロイトは分野は違えどにんげんを解析しようとした。
しかし新自由主義経済はにんげん不在であり、市場とか相場しか相手にしていない。
なるほどドローンやAIやマイナカードと好相性に違いない。
21世紀になってから経済をにんげんにふたたび取り戻すために柄谷行人さんがマルクスを新たに解き直し、また説き直しもしはじめたのは、それこそ歴史の必然というものではないか?
小林秀雄・福田恆存・江藤淳らはにんげんと常に格闘していたし、三島由紀夫はホリエモンやひろゆきのようなタイプのひとを戯画化するとき、もっとも冴えた藝を見せていたことを想起する。