今日、精神神経科通院日。
先生と夏目漱石「明暗」の話で投合する。
当方、柄谷行人さんの著作をまとめてよみだしたことを語る。
帰途、さいきんの習性である、だれとだれが同年代か、考え始めた…
千葉真一=1939年1月22日生まれ
唐十郎=1940年2月11日生まれ→紀元節とは皮肉なり
原田芳雄=1940年2月29日生まれ→閏年生まれか
柄谷行人=1941年8月6日生まれ→原爆投下の日と重なる…
意外なような符合するようなメンバーである。
しかし同年代の一般人たちより、いうまでもなく、若若しかった。千葉真一さんなどコロナに警戒しておればいまも元気な気がする。
存命者は、柄谷行人さんのみ。
今年で83歳。
お元気そうでなにより。
尼崎出身の柄谷さんは、生粋の阪神タイガースファン。1985年にタイガースが日本一になった年は、文芸誌かなにかでタイガース熱烈応援座談会を行い、
「北杜夫のような守旧派タイガースファンは粛清しなきゃいけない」
と、放言、大岡昇平に「物騒なことになってきた」と揶揄われていた。
柄谷さんからすると、東京モンの北さんが当時の掛布選手からバットを贈られたりするのがおもしろくなかったのだろう。
上述のメンバーは若若しいとさっき書いた。
が、柄谷さんはちとちがう。
「夏目漱石とマルクスを等価で読む」ひとは、1941年生まれでも、そろそろ少数派だろう。
こういうひとは、昭和20年代が青年期だったひとだろう。
「右手にフロイト、左手にマルクス」
ということばが流行ったころで、柄谷さんのエッセイ(評論)をよむと、マルクス・フロイト・漱石・沙翁のマクベスは「疎外」の一語によって括られるのである。
しかしこのあたりのことを書きだすと長くなる。
わたしの溜飲が下がったのは、以下の一節である。
1971年11月1日、日本読書新聞に発表したものだ。
「ヒロシマやオキナワについて告発するアンガージュマン作家が巨万の富を獲得し、(注・だれがどう考えても大江健三郎のことだ)埴谷雄高を学生向きに解釈した高橋克巳や適度に薄めた『闇』を女学生向きに売っている五木寛之らがベストセラーになっていることはもっともでありご同慶に堪えぬ。ただ私にはそういう自己欺瞞が自らに許すことができないだけだ。しかし今さら太宰治や坂口安吾、あるいは嘉村礒多を懐かしがってもはじまりはしない。こういう事態は行きつくところまで行き行きつかせるほかないが、しかしまだこれがほんの端緒にすぎないのではないかという思いが私を暗然とさせる。あるいは三島由紀夫は早く死にすぎたのであり、軽々しく絶望しすぎたのかもしれない。」
要するに、この自棄な一文には柄谷さんの持論である日本の近代文学の終焉とそれに手を貸した文壇への怒りが坂口安吾ふうに、ストレートに開陳されているのである。
ただ大江健三郎については初期の小説は買っているからか、その後何回も文藝誌で対談している。
柄谷さんは1977年ー78年にかけて東京新聞で文藝時評を連載、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」、高橋三千綱・三田誠広といった新芥川賞作家たちを仮借なく批判している。
その一方で、安岡章太郎「放屁抄」、水上勉「寺泊」、田中小実昌「ポロポロ」を評価しており、眼はたしかである。
池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」は完全無視、宮本輝「泥の河」「蛍川」(芥川賞作)は褒めており、柄谷さんの「遅れてきた青年」らしさがよくわかる。
庄野潤三・島尾敏雄・小島信夫先生は肯定評価だから、まったく名前の上がらない吉行淳之介さんの、江藤淳が皮肉った「文壇の人事部長」ぶりに腹を立てていたと想像がつく。
新人発掘係が三島由紀夫から吉行淳之介に交代したことは日本近代文学の死期を早めたというほかない。
いまにいたりてにがにがしきことなり…