落語はにんげんの不適切さを肯定するものである。にんげんだから不適切なのである。 | あずき年代記

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カント「道徳形而上学の基礎づけ」読了。


感性、経験より至高の理性ー正確には悟性のようであるがーを高く評価するカントは、究極のポリティカル・コレクトネスのひとなのかもしれない。


この点でも、世紀を超越している。


が、それだけ、几帳面である。


おとといの「不適切にもほどがある!」は、後半、古田新太さんの独壇場だった。



歌いかつ踊り、なおかつ笑わせる。

あらためて達者なひとだ。

いや、いまの役者さんたちのレベルが総体に高く、ユーテリティーなのである。


…ところで、古典落語くらい不適切な藝能もあるまい。


かつて立川談志師匠は、


「落語はにんげんの業を肯定するもの」


と評した。


令和の御代は、不適切さを肯定するものか。


喜劇やコメディアンにも目の利いた坂口安吾は、その代名詞的エッセイ「堕落論」のなかで、


「戦争に敗けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのである」


と述べた。


いまなら、


「コンプライアンスに反したから不適切なのではない。にんげんだから不適切なのである」


とかくところだろう。


そういえば宮藤官九郎さんは落語好き、三谷幸喜さんはそれほどでもない、という個性の差異がある。


ま、シェイクスピア劇も落語に負けず劣らず不適切だが、この2コンテンツはジェンダー格差の男女逆転を封建時代から見据えている。


とくに古典落語は、男のだらしなさ、不甲斐ないさ、間抜けさに容赦ない。


世界に誇れる古典藝能ではないか?