ドストエフスキーとカント。光文社古典新訳文庫のロングセラーに一抹の救い | あずき年代記

あずき年代記

ブログの恥はかき捨てかな…
かき捨てのライフワークがあってもよろしからむ…

ロシアでのテロ。


悲痛である。


ウクライナも、パレスチナもそうだ。

そしてわたし個人は無力である。


暴力と日本の政治屋たちのカネにまつわるスキャンダルは、わたしが幼少のころから絶えたことがない。


幕末=1860年代まで遡っても似たようなものだ。


ハイテクというのか、技術は刷新されてもにんげんのソフト面はアップデートなどしない。


つまり性悪である。

高潔とか、品格とかは幻想にすぎまい。


わたしの書棚から「カラマーゾフの兄弟」が消えないのは、イワン・カラマーゾフの、無神論というより、


「理不尽で無惨なことを神が現世で試練と課するなら、そんな国の入場料はお返しする」


というロジックに共鳴するからである。


カントの論文「永久平和のために」が、世紀を超えてアクチュアリティを発揮するのは人類が幸福になるためには非武装化することしかないと訴えているからである。


「カラマーゾフの兄弟」も、「永久平和のために」も光文社古典新訳文庫のロングセラーであり、物事を理知によって洞察しようとするひとたち中心によまれているのは、ささやかな救いとおもわれる。


日本の憲法9条の淵源は、カントのこの論文にあるということはすこしずつ知られてきている。


現憲法をお花畑と揶揄するのは簡単なことだ。

しかし、そういう批判は施行当時からあったのである。


現実とはなにか?


それは何の罪もない無辜の子どもたちが惨く殺されてゆくのがあたりまえの日常ということだ。


ロシア、中国、北朝鮮の軍備拡張は、なるほど外患にちがいない。


しかし、米国の核の傘の下にいる日本は武器という虐殺の道具を歯止めなく売りにかかっている。


カントの批判する軍拡競争にとっくに参加しているのだ。


公明党が平和の党なんていうのは日本昔話のひとつにすぎない。