ガルシア・マルケスの長篇「族長の秋」(集英社文庫)をよみおえている。
が、また例によって感想がかけずにいる。
上手くかこうなどとは、はなからおもっちゃいませんがね…。
まぁいいや。
かけるところまで書き散らす。
舞台は、カリブ海を臨む架空の独裁者国家。
主人公は元軍人の、出自もいかがわしい大統領。
名前は、ない。
年齢は、若く見積もって100歳以上、どうかすると200歳を超えている。
その人生が360ページにわたって語られるが、改行が6回しかない。
一章一段落構成なのである。
語り手はその一章のなかでも頻繁に変わり、時系列は混乱しているから、そして同じエピソードが繰り返されるから、多視点・カットバック頻用の映画にあるていど慣れてないと、面食らうかもしれない。
迷宮に引きずりこまれる、といいたいところだが、迷宮というにはエネルギッシュに躍動しすぎているようだ。
トルネード、それも原色にぎらつく怪物級の竜巻に読者は巻き上げられ、どこへ連れさられるのか皆目見当もつかない。
巨大な渦巻きのなかで、牛、ハゲタカ、ジャガー、クジャク、イグアナらとともに読者もキリキリ舞するわけである。
その弩級のバイタリティに圧倒されるのが本書の醍醐味である。
生と死、性愛と排泄、好色と純情、非情と慈悲、惜しげもなく流される血と黒黒とした哄笑、老耄と明晰、躁と鬱、祝祭と引き篭もり…ありとあらゆる二項対立がシチュー鍋のように煮立っている。
古今東西の独裁者の定番が微に入り細を穿って描かれているとも見えるが、耄碌して心身ままならないあたりは他人事ならず…になってきた。
この点では、独裁者も市井人も平等のようである。
マルケスの手法、俗にマジック・リアリズムといわれ、日本の現代作家たちもずいぶんマネしたようだが、本家本元が身に備える有機臭濛濛たる熱量には遠く及ばない。
クエンティン・タランティーノが晩年の豊臣秀吉を映画化するとこんな感じになるのかもしれぬ。
再読必至ですね、アタシとしては。