「夜明け前」ー夜明けが晴れるとは限らない | あずき年代記

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島崎藤村「夜明け前」(新潮文庫 全4冊)をすでによみおえている。


ところが、感想がかけない。


「夜明け前」は、島崎一族のファミリー・ヒストリー。


主人公青山半蔵は、藤村の父親がモデル。


木曽馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねていた。


旧家の、いわゆる旦那衆だ。


時代は、幕末。


が、晩年、精神を病み座敷牢に入れられて狂死する。


藤村の父、すなわち…といっていいのだろう…半蔵は、なぜ狂ったのか?


ひとことでいえばご一新による時勢の急変に順応できなかったからである。


新しい世とともに本陣・問屋・庄屋は廃止され、戸長になるのだが、木曽山間の収入源である山林の多くが官有林化され、それでは地域全体が大打撃となるから、ほかの戸長たちと連携し、新政府に正式な手続きを踏んで抗議するのだが、訴えは退けられ、戸長も解任されて隠居に追いこまれる。


が、これだけが精神疾患の原因ではない。


なんとない憂鬱は半蔵本来の気質なのだが、彼の支えは平田篤胤の唱えた国学であり、平田国学によれば、復古の世さえ訪れれば天子の下、民びとの不如意が解消されるはずであった。


けれども、実態は異なった。


新帝=明治天皇は東京に都を移し、旧江戸城つまり千代田城に入ったあたりから、「天岩戸に籠ってしまわれた」と半蔵は落胆するのである。


夜明けは、明けてみれば燻んでいたというわけだ。


さて、この半蔵の拠って立つところである平田国学が、どうもよくわからない。


新潮文庫の注釈は詳細であり、藤村が平田国学をよく理解していなかったり、執筆時期である昭和初期の世に合わせて一種の改竄を行ったりしていると指摘しているので、いよいよもって平田国学のポイントがつかめない。


大岡昇平の評論「歴史小説の問題」に「夜明け前」と平田国学の関係について言及した箇所があったのを思いだし、その部分を併読してみた。


大岡昇平も藤村のトンチンカンさを批判していた。


平田国学には大国流という分派があり、明治政府はこの大国流を採用、明治天皇も大国流にしたがって践祚したから、明治時代になってから平田国学が時勢外れになったという藤村の見立ては当たらないという。


なるほど…。


これでも平田国学の全貌は理解できないので、岩波新書、辻本雅史「江戸の学びと思想家たち」を「夜明け前」読了後に続けてよんでみた。


これで、補助線が引かれた気がする。


ごくごく簡単にいえば平田篤胤は、「記紀の神々と民衆の信仰をつなげる論理を提供し、地方の名望家層に支持された」由。


平田篤胤が保証したものは死後の魂、御霊である。


この御霊信仰が国家神道の土台の一部をなした。


戦時中の特攻隊員などが、「次は靖國の桜の下で会おう」という台詞を交わすその行間に流れるものである。


この台詞は私の親の代=戦中派には馴染み深いものだった。


そして御霊信仰は、いまの為政者たちの共通分母、日本会議に受け継がれている。


安倍晋三・麻生太郎・菅義偉・岸田文雄・小池百合子その他大勢が日本会議のメンバーである。


もはや私からすれば戦後でなく新しい戦前がかなりまえからはじまっているのである。


晩年の小林秀雄は、ユリ・ゲラーの超能力を真面目に信じるほどオカルト化し、何事も合理化する科学的思考を否定していたが、それでも小林が信奉していたのは本居宣長であり、その没後門人を自称していた平田篤胤には距離を置いていた。


近年しばしばおもうことであるが、フランス語の師である小林秀雄とその弟子大岡昇平は時代が下るごとに方向性がまるっきり逆になっていった。


1988年の夏、大岡昇平は朝日新聞の取材に応じ、


「死ぬのは怖くありません。フィリピンでさんざん死者を見てきましたから。死後生も信じていません」


ときっぱり答えていたのが脳裏に刻まれている。


バブル期はオウム真理教だの幸福の科学だのが面白おかしくメディアに迎え容れられていたから、その風潮を苦々しくおもう気持が大岡昇平の内部に働いていたと想像する。


大岡昇平が死去したのはその年の暮であり、昭和天皇崩御よりも二週間ほど早かったと記憶している。


葬儀は身内だけの無宗教であり、事情が許せば私も見習いたい。


神も仏もありません。