人間はなんのために生きているのか?と自ら問わないひとはまずいないだろう。
哲学的、形而上学的には無数の解答が用意されているはずだ。
しかし生物としては掛け値なしに食うために生きているのだ。
ただそれもけっして容易なことではない。
とりわけ飢餓状態に陥ったら、食うために生きのびることが唯一の目的になる。
さきの大戦で、南方で戦死した日本兵の多くは餓死であったという。
「野火」の主人公田村一等兵はレイテ島で結核にかかり、所属する隊から事実上追放、敗兵として島内を彷徨することになる。
山の芋を生で食い、自分の血を啜った蛭までむさぼる。
すでに餓死している日本兵たちが目につく。
死にかけているひともいて、錯乱がはじまっている。その男を見て、田村は「うまそうな顎だ」とおもってしまう。
餓死直前の錯乱した日本兵は「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳、もうすぐ友軍機が助けにくる」
と譫言を口走るが、正気にもどる瞬間もあり、田村に向かって、
「おれが死んだらおれを食っていいよ」
と優しくいう。
ドナルド・キーンは「野火」にはキリスト教だけでなく、仏教の影響もある、と指摘していたが、このあたりの場景がそうかとおもった。
錯乱した男が息絶えた直後、飢餓に耐えかねた田村は、軍刀を抜いて男の身体を切ろうとするが、切ろうとする右手を左手が抑える。
「野火」は、田村の手記の体裁をとっているから人称は常に「私」であるが、作者の大岡は、この場面をあっさりと「そのとき変なことが起った」とだけ記す。
この前後から田村=「私」も精神を病みはじめ、幻覚に悩まされるようになる。
そのひとつは、「なにものかに見られている」という感覚である。
それはあくまで感覚にすぎない。
実在するものではない。
が、その感覚によって田村は形而上的省察に傾斜してゆく。
その内容は、今後もさらに再読しつづけないと私には把握できかねるものがある。
ただ天変地異、飢餓、戦争がないと宗教、哲学、文学などが発展してこなかったのはたしかなことだ。
避けたい逆説だが、これは洋の東西を越える実相のようである。
古都に名刹が多いことがこれを裏づけている。
「野火」の後半、つまり戦後、田村は東京郊外の精神病院に収容されているが、その手記のなかで「戦争を知らない人間は半分子どもだ。」とかく。
つまり戦争を知らない子どもたちは、戦争を知らない未熟者であるがゆえに、次の戦争を呼び起こしてしまうのである。
この現象は、むろん対岸の火事といったことではない。
大岡昇平はじぶんの葬儀を無宗教で行なった。