「歴史小説の問題」ー大岡昇平・リアル杉下右京論 | あずき年代記

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8月に、神保町の古書店で買った本だ。

大岡昇平「歴史小説の問題」(文藝春秋 1974年発売)

当方の眼からすると1500円から2000円の価値はある。

また実際、当方が卒論用の安吾の資料を集めていたころ、文藝の古書はこれくらいの値段がした。

が、300円で購入。

安いし、本も汚れていないから助かったが、こうしたマトモな本が300円とは、日本人が有体に莫迦になった(本を読まなくなった)、動かぬ証拠だろう。

大岡さんは、1961年(昭和36年)に1年だけ「群像」で文藝時評を担当したが、友人、知己おかまいなく、是是非非の、斬人斬馬(ざんじんざんば)の批評ぶりを発揮した。

最大のポイントは、井上靖さんの「蒼き狼」をめぐっての歴史小説論争。

ここで抑えておかなくてはいけないのは、鷗外の唱えた、

「歴史其の儘(正確には歴史「資料」其の儘だが)と歴史(資料)離れ」

というふたつのカテゴリー。

井上さんは、後者の立場で「蒼き狼」を書いた。

元ネタは、「元朝秘史」で、主人公はジンギス汗。

読者の評判が高く、大岡さんの友人、山本健吉、中村光夫も賞賛を寄せた。(井上さんも、この資料を元にしたことを「蒼き狼」を書き上げた段階で明かしている)。

が、大岡さんは、この3人いっぺんと論争に打って出る。

大岡さんの批判の根底にあるのは、井上さんの歴史離れが甚だしすぎる、というものだ。

井上さんは、ジンギス汗を「狼の思想」に依って行動した英雄として描く。

「狼の思想」とは、曖昧なものだが、まあ、浪漫的実存主義者といった人物象で、1950年代後半から60年代前半にかけて流行ったタイプである。

しかし、大岡さんによれば、本来遊牧の民であるモンゴル人たちにとって狼は家畜を襲う害獣であり、その狼をヒーローにするのは無理があるということで、これは説得力がある。

そうして、この初期設定で過失を犯したため、井上さんが、資料を主人公に都合よく改変することを余儀なくされたことと、さらには、井上さんの資料読み間違いまで正確に指摘している。

一方で、社会の弱者のルサンチマンから成功者、あるいはアメリカを批判する松本清張さんの史観も一元的で目を曇らせると容赦ない。

大岡さんが、井上さん、松本さんに容赦ないのは、自分が批判したところでふたりのベストセラー作家の売り上げに影響しない、と、踏んでいたからだろう。

「相撲に勝って勝負で負ける」と、当方が大岡さんを評したのは、こういう意味からである。

さらに、大岡さんは、1974年には、

「自分が井上氏を批判した裏には氏への嫉妬があった。」→その後、「歴史小説の問題」を何度か読み返したが、井上靖に嫉妬していたという記述はなかった。わたしの粗雑、粗忽な誤ちである。北杜夫の「楡家の人びと」を歴史小説として評価していたのが意外といえば意外、納得といえば納得である。



史伝という分野(「史」と「伝」はまたちがうと大岡さんは分析していた)を開拓した鷗外に対しても、「歴史資料其の儘」の立場で書かれた「堺事件」に、鷗外の、藩閥政府への阿諛(あゆ)のために、資料の改変が行なわれたと指摘する。

そうして、鷗外の欺瞞を暴くために、自ら資料を読み直し、実地踏査を何度も行なって、大岡さん自身ミスがあった場合は、それを正直に読者に提示しながら書き進めていった「歴史資料其の儘」が、「堺港攘夷始末」(中公文庫・絶版)で、未完の遺作となった。


事実あるいは真実へのフェアさを貫き通すためには「文學官僚・文壇政治などは無視する」大岡さんの姿勢は、杉下右京そのものであり、だからこそ、「事件」のようなミステリーも書けたのである。


大岡さんが、公平無私を重視する「坊っちゃん」と「パルムの僧院」のファブリスを愛したのにも、それだけの根拠があったのだ。