舟木一夫×林真理子対談 2015年週刊朝日 | 武蔵野舟木組 2024

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               さすらい

昨日は舟木さんと林さんの2002年の対談を載せましたが、今回は2015年の対談です。

 

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「週刊明星」編集部に怒鳴りこんだ舟木一夫さんが逆に恐縮したワケとは

 

作家・林真理子さんとの対談で、「週刊明星」編集部に怒鳴りこみにいったことがあると明かした舟木一夫さん。その理由とは。

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林:そもそも舟木さんは、松島アキラさんの「湖愁」を一緒に歌ったのがきっかけでデビューされたんですよね。

舟木:名古屋のジャズ喫茶に松島アキラさんが来るというんで、友達と一緒に行ったんです。司会の人が「どなたか一緒に歌う人いませんか」と言ったとき、友達が僕の手をパッとつかんで挙げたんです。「はい、そこの君」って引っ張り上げられて、松島さんが1コーラス目を歌って、僕が2コーラス目を歌って、3コーラス目を2人で歌って……。

林:すごくうまかったんですね。

舟木:どうなんですかね。そのとき「週刊明星」の記者に呼び止められて、住所と電話番号を書いて渡したんです。2、3カ月後、学校から帰ったら親父が、「東京の堀さんという人から、テープをつくって送ってほしいと電話があったぞ」って。

林:その「週刊明星」の記者が、堀(威夫。現・ホリプロのファウンダー最高顧問)さんに「うまい子がいた」という話をしたんですね。

舟木:それでデモテープをつくって送ったら、3カ月ぐらいして、また堀さんから電話があって、「名古屋に行くので、親御さんと一緒にお目にかかりたい」と。あとから考えると、ルックス確認なんですよ。まだ僕がどんな顔をしてるかわからないから。

林:不細工だったらそのまま帰ろうと思ったら、背の高い美少年があらわれたわけですね。

舟木:「一日も早く東京に出てこい」ということになって、高校3年生の5月に東京に出て、作曲家の遠藤実先生のレッスンに通いました。その年の秋、堀さんに誘われて会社近くの公園で2人で日向ぼっこしてるとき、「この世界、売れない可能性が99%だ。売れなかったらどうする?」って聞かれて、「僕は売れるために出てきましたから、売れます」と答えたんです。

 

林:へぇー。

舟木:あのときの景色も言葉も、いまでもはっきり覚えてます。堀さんはそのとき、「こんな生意気なやつはいない」と思ったって、あとから聞きました(笑)。

林:ほめてしかるべきだと思いますよ。「その心意気やよし」と。

舟木:上京して約1年後の6月5日、「高校三年生」でデビューしたら、1カ月で30万枚ぐらい売れたんです。25日に堀さんに呼び出されて、「たった20日でこんなに売れちゃって、いくら払っていいかわからない。とりあえず今月はこれで勘弁してくれ」と最初のお給料をポンと渡されて、翌月から歩合制になったんです。

林:お金がバンバン入ってきたわけですね。でも若いから使い道が……。

舟木:うちは親父があんなですからね。とにかく妹と弟に僕と同じ思いをさせちゃいけないと、20歳のときに家を買って家族を呼んだんです。

林:お父さん、困ったことがいろいろあったんですか。

舟木:「飲む、打つ、買う」を人の10倍ぐらいやる典型的な遊び人でした。小さな映画館と興行師をやってましたが、僕が売れたことで50歳くらいで仕事をしなくなっちゃったんです。僕、親父に言ったことあります。「いくら僕が売れたからって、一家の大黒柱を放棄したのは、失敗だろ」って。

林:お父さまのこと、たしかお芝居にされてますよね。

舟木:僕は最初「いやだ」と言ったんです。お金を取ってお客さまに見せる種類のものじゃありませんからね。

林:お芝居はお父さまが亡くなられてからですか。

舟木:そうです。親父が亡くなるまで、僕は親父に関して一言も外でしゃべったことはないんです。親父の人生ですからね。だから「週刊明星」が、親父が女房を取っかえたという話を書いたときには、編集部に怒鳴り込みに行きましたよ。翌日か翌々日、当時の副社長と編集長が謝罪にいらして、逆にこっちが恐縮しちゃいましたが。

林:それはそうですよ。「週刊明星」がバーンと売れたのは、舟木さんのおかげですもん。

 

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本人が明かす「今さら舟木一夫もねえよな」よりもイタかったこと

 

大ヒット曲「高校三年生」でデビューしてから半世紀以上。70歳を過ぎてなお、ファンを熱狂させる魅力を持つ舟木一夫さんが、作家・林真理子さんとの対談で明かした、売れない時代に言われて最もきつかったこととは。

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林:奥さまって、大学を出たばっかりの若い方でしたよね。

舟木:七つ違いかな。結婚したのは僕が29歳のときですね。

林:舟木さんが苦しかったときも、ずっとついてきてくださったんですよね。
舟木:そういう時期も、「すまないね」とか「頑張るからね」とか、そんな歯の浮くようなこと言えなかったですね。お互い嫌いで一緒になったわけじゃねえんだからしょうがないと。僕は30代半ばから40代前半がいわゆる“寒い時期”で、小さな商業施設の営業にも行きました。

林:「あの舟木一夫が? ウソ!」って感じだったんじゃないですか。

舟木:いや、敷地内の喫茶店でお茶を飲んでると、「今さら舟木一夫もねえよな。お客なんか来るのかい」なんて会話が聞こえてくるんですよ。

林:ひどい!

舟木:僕は「ああ、そうだろうな」と思うわけです。自覚してますから。でも、突き刺さるのはそういう会話じゃないんです。タクシーに乗って「どこそこにお願いします」って言うと、声でバレるんですね。「舟木さんですか」「はい」「私の青春時代、みんなで『学園広場』を歌ったもんです。いい時代でした」。お金を払おうとすると、「けっこうです。いい記念になりました」ってスーッと行っちゃう。罵声よりはそっちのほうがイタかったですね。

 

林:私も直木賞をとるためにテレビに出るのやめて、家にこもって書いていたころ、タクシーの運転手さんに「このごろ見ないけど、何で食べてるの?」って言われたことありましたけど。

舟木:まあ、あのころの一般論ですよね。流行歌手は売れてる順番にわんさかとテレビに出てましたから。

林:当時は日本列島がその歌一色になりましたよね。誇張じゃなくて。

舟木:今はテレビの歌番組も少ないし、顔ぶれも決まってるわけですよ。一人ひとり自分が好きな歌をイヤホンで聴いてますからね。今、流行歌って、ほとんどカラオケの世界でしか生息してないんじゃないかな。

林:そういう中にあって、舟木さんは「通じる人たちだけを相手に歌います」とはっきりおっしゃって、その数が増えているというのがすごいですね。コンサートのとき、「高校三年生」を別とすれば、皆さんがいちばん喜ぶのはどの歌ですか。

舟木:おかげさまでたくさんありまして、「学園広場」「北国の街」「哀愁の夜」「絶唱」「高原のお嬢さん」……。

林:私、この季節に枯れ葉が舞っているところを歩くと、「高原のお嬢さん」の「♪あの人に逢いたい……」というメロディーがふっと出てくるんです。

舟木:あれは名曲ですよ。あの曲や「銭形平次」は、似たようなものを作ったらすぐバレちゃうメロディーです。

週刊朝日  2015年12月18日号より抜粋