ザ・インタビュー 舟木一夫⑤ 聞こえてきた客の厳しい声 | 武蔵野舟木組 2024

武蔵野舟木組 2024

               さすらい

2017.4.15 BS朝日  ザ・インタビュー
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寒い時期を脱出するきっかけは、船村徹先生の言葉であり、お客様の眼差しだったわけです。そんな事を淡々と語る舟木さんの姿を見ていると、寒い時期と言うのをご自分でしっかり受けとめてお過ごしになった時期なのでしょう。我々凡人からすると「よく自暴自棄にならなかった」と思うのです。
インタビューの淡々とした言葉と同じで、その寒い長い時期を淡々と過ごされていたように思われます。今になって振り返ると、それが大きな充電時期であり、舟木さんの人生において必要な時期だったのだと思います。
 
さすらいがはじめて舟木さんのコンサートに行った川崎は、丁度その30周年を少し過ぎた頃だったと思います。
「へぇ~舟木一夫のコンサートがあるんだ。行って見たいね」という事で、当時仕事の相棒であり、歌のレッスンの先生でもある人と行きました。
次から次と舟木さんの唄う青春歌謡を聴きながら、一緒に口ずさんでいる自分がいます。どの曲もおぼろげではありますが歌詞が次々と出てくる自分に驚いたものでした。楽しかったぁ~。
40代になった自分が、10代から20代の初めの頃から遠ざかっていた舟木さんの歌。舟木映画を殆ど見ていた事もあり、鮮明に青春時代が蘇ってきます。
素敵でした。楽しかった。
 
カラオケが出始めた頃は、8トラックのテープで、歌詞カードを見ながら歌ったものです。曲数も少なく、歌う場所も限られていました。マイクは勿論コードが付いていて、遠くの席の時は、わざわざその場所まで歌いに行きます。テレながら歌詞カードを一生懸命読みながら歌ったものです。
テープを探し、歌詞カードのページをめくり、緊張して歌ったのが昨日の事の様に思い出されます。
時代は変わり、レーザーディスクになり、それでも一枚一枚ディスクを探しデッキに装着、モニターを見ながら歌います。その後自動になり、機械に装着されたディスクが自動でかかるようになります。リモコンでは有りませんでした。その後リモコンで操作できるようになりますが、ディスクの数が限られるので、まだまだ曲数が少ない時代です。
通信カラオケが始まるようになり、カラオケがどこでも出来る世になったり、新曲がすぐに流れるようになりました。カラオケBOXの普及も凄くなりました。それまで飲み屋などでした歌えなかったカラオケが、若者たちや、お年寄りたちも広がっていきます。カラオケは、日本で出来た文化ですね。
 
舟木さんご自身が出演するカラオケが見れますね。初期の頃の銭形平次のカラオケ映像が番組で流れました。今ではコンサートライブの映像と共に歌う事も出来るようになりました。楽しい時代になったものです。