一、前置き

二、中東の偽イスラエルと偽ユダヤ人とは

三、偽ユダヤの起源・ハザール王国

四、ホロコースト神話と偽イスラエル建国の関係

五、結び

 

一、前置き

こんにちは。

今回は偽ユダヤの起源とハザールの関係について説明します。皆さんは現代のイスラエルは聖書の国だと思い浮かべますよね。我々は誰しも学校で教わる嘘の歴史教育の影響で現イスラエルは神の民であるユダヤ人の国だと錯覚しているのかと思います。しかし、その現イスラエルはどのような経緯で建国されたのか、現代のユダヤ人は本物か偽物かの事実を話しても多くの人は受け入れようとしない物かと思います。聞く耳のある人は聞いて、それを拡散して下さると幸いです。

 

二、中東の偽イスラエル建国と偽ユダヤ人とは

千九百四十八年、パレスチナ地方に入植したシオニストたちによって、イスラエルが建国されました。しかも、以前から住んでいたパレスチナ人から土地を奪ってです。アラブ諸国はパレスチナを巡って、イスラエルと中東戦争を起こして、アラブ諸国が敗れました。その結果、約七十~八十万人ものパレスチナ人が難民となりました。現在でも、パレスチナ人は偽イスラエル国内で差別や迫害を受けています。

そもそも、「パレスチナ」という名称は百三十五年にローマ皇帝ハドリアヌスがローマ帝国に従わないユダヤ人を迫害するために古代イスラエル民族の敵であった異邦人のペリシテ人に因んで名付けられたものです。「パレスチナ」という名称はこれ以降使われるようになりました。七世紀にはイスラム勢力が侵入して、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間の対立戦争の舞台となり、十一世紀には欧州からかの悪名高き十字軍が侵攻してエルサレム王国が建国されて、十二世紀末にはアイユーブ朝の君主のサラディンに奪還されて、パレスチナ地方の大半はイスラム勢力の支配下に入り、十六世紀にはマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国に支配されました。第一次世界大戦が勃発すると、英国は三国同盟側に与したオスマン帝国に打撃を与えるためにオスマン帝国の支配下にあったアラブ人に対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけた対価として千九百十五年にフサイン=マクマホン協定を締結して、パレスチナ地方の独立を承認しました。一方で、英国は莫大な戦費を確保するべく、偽ユダヤ金融資本家のロスチャイルドから資金援助を必要としていました。そのため、千九百十七年に当時の外相のアーサー・バルフォアを介して、パレスチナ国家建設運動を展開していた偽ユダヤ系貴族院議員のライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに送った書簡でユダヤ人国家建設運動を支持・支援する旨を表明したことでロスチャイルドの資金援助を得ることができました。これは有名な「バルフォア宣言」と呼ばれて、これをきっかけに全世界にシオニズム運動が拡大することに繋がりました。こちらの動画はパレスチナ問題について分かり易く解説しています。

 

 

では、中東のイスラエルと現代のユダヤ人が偽物である理由を説明します。

偽イスラエルでは現地で生まれで尚且つ偽イスラエル国籍を持つ者、帰還法でユダヤ人を母親に持つ者、又はユダヤ教に改宗して他の宗教を信仰しない者と定義された偽イスラエルに移住する者をユダヤ人と定義していますが、これは大きな誤りです。なぜなら、聖書は血統は母系ではなく父系を重視しているからです。なぜなら、遺伝子的にもYAP遺伝子が男性しか受け継がないからであり、母系を重視すると受け継ぐことはできないからです。このように世間で言うところのユダヤ人の定義が間違っており、現代の中東のイスラエルに居住しているユダヤ人が東欧系のハザール人が多いことからも中東のイスラエルは偽物だと分かります。

 

次に聖書を見てみましょう。

 

ヨハネの黙示録 二章八節~十一節(新共同訳)

スミルナにある教会の天使にこう書き送れ。『最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』

 

ヨハネの黙示録 三章八節~十三節(新共同訳)

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』

 

このように主イエスは黙示録が書かれた一世紀末頃から偽ユダヤ人の出現を預言されていたのです。キッシンジャーやソロス、ロスチャイルド、ビルゲイツなど世界の政治と経済に絶大な影響力を持つ支配層を始め、欧米諸国の政財界を牛耳っているハザール系ユダヤ人は恰もONE PIECEに登場する天竜人(作中の世界で最も誇り高く気高き血族として、世界の頂点に君臨して傍若無人に振る舞う貴族)の如く好き勝手に悪事を働いていることから、彼らはユダヤ人と自称しているだけで実際はサタンの集いの属しているのです。悪魔崇拝者がこの世の全てを支配しているのは一世紀当時からあったことです(ヨハネ一 五章十九節参照)。

 

次に真のイスラエル民族とは何か見ていきましょう。

アブラハムの孫、イサクの息子、ヤコブがイスラエルと改名(創世記32:29)し、イスラエルの12人の息子たちがイスラエルの12部族と呼ばれるようになりました。生まれた順に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン(創世記29:31~30:24、31:16~18)です。そのユダから出たユダ族の子孫、またイスラエル王国が南北に分裂して南のユダ王国にユダ族と共に残ったベニヤミン族が後世にユダヤ人と呼ばれるようになりました。旧約時代、ダビデの息子であるソロモンが晩年に神の律法と掟に従わなくなったので(列王記上11:33)、主なる神が怒ってソロモンの子であるレハブアムの治世にイスラエル王国を南北に分裂させ、ソロモンの家臣だったエフライム族に属するヤロブアム(列王記上11:26)にイスラエル10部族をお与えになり(列王記上11:31)、レハブアムにはユダ族しか残らず(列王記上12:20)、ベニヤミン族はユダ族と行動を共にしたことも分かります(列王記上12:21)。しかし、ヤロブアムも金の子牛を作るという偶像礼拝をし(列王記上12:28)、罪の源となりました(列王記上12:30)。結果、ヤロブアムを王として始まったイスラエル王国とレハブアムから始まったユダ王国の間は戦いが絶えず(列王記上15:6)、ついにはアッシリアにイスラエル王国は滅ぼされて一部の古代イスラエル人は捕囚されました(列王記下17:3~6)。しかし、全員が捕囚された訳ではなく、消息を絶ったユダ族とベニヤミン族以外のイスラエル10部族の古代ユダヤ人の血統は記録がなく、もうほとんど分からなくなっています。

真の聖書福音と預言のミカエル氏の過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」より

イスラエル民族とは旧約聖書の創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブとヤコブの十二人の息子の子孫からなる民族です。祖先のアブラハムはノアの息子で黄色人種の祖先であるセムの子孫であり、従ってユダヤ人を始めとするイスラエル民族は黄色人種でなければおかしいです。しかし、現代のユダヤ人と名乗っているシオニストたちは東欧系の白人で、本物のユダヤ人ではありません。彼らは単にユダヤ教に改宗したに過ぎない東欧系民族のハザール人の末裔です。従って、彼らは血統的にアブラハムの子孫ではなく、セムの子孫でもありません。

 

三、偽ユダヤの起源・ハザール王国

では、偽ユダヤの起源のハザールの歴史について見てみましょう。

偽ユダヤ人の祖先であるハザールは謎の多い遊牧民であり、起源は疎か系統もはっきりしないが、恐らくテュルク系と考えられています。ハザールは六世紀末頃にカスピ海沿岸とカフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ遊牧大国の西突厥の勢力が強大で、その宗主権のもとに置かれていました。六百二十六年、ビザンツ帝国のヘラクレイオス一世は帝国の北東国境を守るためにハザールを中心とした東のテュルクと同盟を結び、ビザンツ帝国は彼らと共にササン朝の支配下にあったカフカスを攻めて大戦果を挙げ、七世紀中盤になって西突厥が衰退したことを機に後継国家のハザール・カガン国を建国して独立したのです。

ビザンツ帝国とは共通の敵がペルシア(ササン朝)とアラブ(イスラム勢力)だったため、利害が一致していたが、クリミア半島の領有に関しては争いが生じていました。西進を続けるハザールはまずボスポロス(ケルチ海峡)を占領して、クリミア半島南端のヘルソン(ケルソネソス)に迫りました。ビザンツ帝国にとっては古来のギリシア植民都市であったヘルソンを黒海における橋頭堡として死守すべきであったため、皇帝ユスティニアノス二世は自治都市であったヘルソンに遠征軍を差し向けたが遠征は失敗に終わり、七百五年にヘルソンはハザールに占領されるも間もなくしてヘルソンはビザンツ帝国に奪還されて、クリミア南部は帝国領、それ以外はハザール領ということになり、両国の友好関係が約二百年にわたって続くのでした。比較的にハザールと友好的だった当時のビザンツ帝国はアラブとハザールの戦争の大半の期間で七百五年のユスティニアノス二世のハザール王女のテオドラの結婚のような特別な例を含めたハザールとの実質的な同盟関係に等しい密接な関係を築こうとしていました。

一方、イスラム勢力との関係も複雑な物でした。六百五十一年にハザールはカフカスを巡って対立していたササン朝がイスラム勢力に滅ぼされると、今度はペルシアを征服したイスラム勢力とカフカスを巡って争いました。イスラム勢力との攻防は一進一退となり、これは六百六十一年にウマイヤ朝が成立した後も続きました。七百三十五年、ウマイヤ朝がハザールの領土であったヴォルガ河畔に進撃したことに窮したカガンは和睦を申し入れてイスラム教に改宗を約束したことで、ハザールはウマイヤ朝カリフの宗主権を一時的に認めさせられるが属国にはなりませんでした。ウマイヤ朝に敗れたハザールはアッバース革命に前後するイスラム帝国内部の混乱を機に、七百九十九年にユダヤ教を公的に受容しました。

このように偽ユダヤ人の祖先であるハザール人がユダヤ教に改宗したきっかけとは、コーカサス山脈に隣接して戦争の舞台となった小アジア東縁におけるビザンツ帝国とアラブ・イスラム帝国の長期に渡る戦争とも関連していたのです。また、アルメニアを介してビザンツ帝国とハザールの連携が実現することはとりわけアルメニアがウマイヤ朝の本拠地であるシリアに近接していることから、ウマイヤ朝にとっては重大な脅威でもあったが、この連携は実現せずにウマイヤ朝が広汎な自治を認めたことでアルメニアの大部分では平穏な状態が続き、ビザンツ帝国も同様にアルメニアに対する積極的な軍事行動は控えていたのです。実際にはハザールの襲撃によってもたらされる共通の脅威を考慮した結果として、ウマイヤ朝はハザールに対するアルメニア人と隣接するグルジア人との積極的な同盟関係に行き着くことになりました。

ハザールの元来の宗教は多神教とアニミズムでしたが、遊牧民の特徴として他の宗教には寛容だったため、イスラム教、キリスト教(パウロ教)、ユダヤ教なども信仰されていました。しかし、地理的には東に位置するイスラム教を信奉するアラブ・イスラム帝国と西に位置する正教会を信奉するビザンツ帝国の二大帝国の侵略を避けて等距離外交を結ぶために、九世紀までにはハザール王国の支配層は同じアブラハムの宗教で尚且つキリスト教(パウロ教)とイスラム教の共通の起源とみられるユダヤ教を国教化して、一部の一般住民もそれに続いたのです。そんなハザール・カガン国は十世紀になると衰退し始め、貢納国であったヴォルガ・ブルガールの離反や、キエフ公国、ペチェネグといった外敵の脅威に晒されていき、九百六十五年にはキエフ大公スヴャトスラフ一世の遠征でハザール・カガン国は事実上崩壊しました。その後約半世紀の間、クリミア地方で独立状態を保ちましたが、千十六年までにロシアとビザンツ帝国によって征服されました。王国が衰退してもなお彼らはユダヤ教信仰を持ち続けて、それがロシアやベラルーシ、ウクライナなどの東欧諸国にユダヤ教徒=ハザール系偽ユダヤ人が多い理由ともなっています。彼らは十九世紀末の帝政時代のロシアで迫害され、第二次世界大戦後にパレスチナに渡って偽イスラエルの建国に携わったのです。

 

四、ホロコースト神話と偽イスラエル建国の関係

次に偽イスラエル建国の理由の一つとされるホロコースト六百万人虐殺について検証してみましょう。ホロコーストの語源は「全部 (ὅλος)」、「焼く (καυστός)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον」であり、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った単語であり、元来は古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにし神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、即ち元来は旧約時代の古い契約の律法で規定されていた動物の犠牲制度に由来した用語でした。こうしたことから殉教のための犠牲をも意味するようになり、転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになったのです。一般的な歴史用語のホロコーストとはナチスドイツとその傀儡政権による欧州のユダヤ人約六百万人に対する国家ぐるみの組織的な迫害と虐殺行為のことを指しています。しかし、本当に六百万人ものユダヤ人が虐殺されたのでしょうか。六百万人ものユダヤ人が虐殺されたのであれば、今頃はチベットやウイグルのように絶滅危惧種になっているはずです。ホロコースト六百万人虐殺を疑問視する考えを安易に否定派と決めつけるのは過言です。日本では千九百九十五年に起きた文藝春秋社が発行していた月刊誌「マルコポーロ」九十五年二月号に「ガス室は捏造されたもの」という内容の記事が掲載されて、米国の偽ユダヤ人団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」からの抗議と広告出稿差し止め運動で文藝春秋社は「マルコポーロ」の自主廃刊と社長交替を余儀なくされたと言う「マルコポーロ事件」が有名です。ホロコーストにおけるユダヤ人の最大の死因はガス室での毒殺と言われていますが、本当にガス室なる物は収容所に存在したのでしょうか。

 

 ニュルンベルグ裁判所は「法律の皮を被った化け物」だった。

 企画したのは、イスラエル建国を企む政治的シオニストだった。検事も判事も、すべて戦勝国から送り込まれたが、そのほとんどが、英語とドイツ語を解するユダヤ人だった。ドイツ人の弁護士は、英語も英米法の手続きもほとんど知らず、ことあるごとに妨害を受けた。訴訟手続きの順序や方法は、およそ、裁判所といえるものではなかった。裁判所の「規則」の最大の問題点は、以下の2つの条文にあった。

19条:当裁判所は、証拠管理に関しての技術的な規則に拘束されない。可能なかぎり迅速で形式的でない訴訟手続きを採用して、それを適用し、いかなる手段でも決定的な価値があると判断すれば認める。

21条:当裁判所は、周知の事実に関しては証拠を要求せず、それらをすでに確認されたものとして扱う。同様に、同盟国政府の公式の記録や報告は、真正な証拠として認める。

 「凶器」及び「殺人現場」である「ガス室」の現場検証は行われなかった。

 「証言」だけで、しかも、被告側の反対尋問は行われなかった。

 結果として、判決は、検証不十分な「証言」のみによって下された。

 最も重要な被告の証言者、元アウシュヴィッツ収容所司令官ホェスは、3日間にわたる拷問を受けて陳述書に署名したが、その後、内容を知らないという手記を残していた。

 「600万人の虐殺をアイヒマンから聞いた」と証言した元ナチ高官については、その後、戦争中からイギリスの秘密情報機関のスパイになっていた事実が暴露された。

 「ガス室」神話に対する疑問は、すでにニュルンベルグ裁判当時から出されていたものであるが、近年のいわゆる「ホロコースト見直し論」には、東西冷戦の終結にともなう新しい状況がある。そもそも、大量であろうと少量であろうと、殺人には「凶器」と「現場」が絶対的な必須条件であるが、「ホロコースト」説の中心をなす「ガス室」は、前述のように、この「凶器」と「現場」の二者を兼ねている。

 しかし、ニュルンベルグ裁判で、唯一、法廷に提出されたのは、記録フィルムの上映によるドイツ南部のダッハウ収容所のシャワールームの水栓の映像のみであった。

 ところが、知る人ぞ知る。すでに1960年[昭35]には、「ドイツにはガス室はなかった」という事実上の定説が成立していた。つまり、ニュルンベルグ裁判で採用された唯一の映像は、完全に虚偽の物的証拠だったのである。

 残された「ガス室」はソ連圏のポーランドのものだけとなった。

 この状況を一変させたのが、東西冷戦の終結であって、ポーランドの「ガス室」なるものの実態が研究者の目にふれるようになると、次々と疑問が提出されるようになった。その最終的な到達点をなすのが「ガス室」の法医学的調査と鑑定である。

 「ガス室」と称されてきた建物の構造、人員収容面積、密閉性、排気能力、ガス投入のための穴またはパイプの有無の調査、さらには壁面の素材と結合した「シアン化水素」(気体を「青酸ガス」とも呼ぶ)の残留テストによって、現在では、歴史学における考古学的な発掘調査と対比し得る科学的な研究が可能になっているのである。私が掌握しているだけでも、すでに8つの報告があるが、その中には、クラクフのポーランド国立法医学研究所の調査と鑑定結果が含まれている。同研究所は、日本ならば警視庁が鑑定を依頼するような最高権威であり、アウシュヴィッツ博物館の依頼に基づいて実地調査を行い、同博物館に鑑定結果を伝達したものである。

 私は、クラクフの同研究所を訪問するなどして、それらの調査と鑑定の報告書を入手し、著書『アウシュヴィッツの争点』の中で、法医学的調査と鑑定の意義を詳しく紹介している。

 以上のような法医学的研究によって、従来流布されたきた神話は、完全に崩壊している。これらの研究を無視する議論は、たとえて言えば、殺人事件の審理に当たって検察当局が、殺人に使用された凶器として自ら主張する物的証拠の提出及び専門的な鑑定と、殺人現場として自ら主張する場所の現場検証とを、いずれも拒否ないしは無視しながら有罪の判決を求めようとするような、横暴極まりない愚挙に他ならない。

 ところが、以上のような矛盾の拡大に対しての逆行現象として、法的な言論弾圧と、真相を抑圧する世論操作とが、近年、かえって強化されているのが現状なのである。

 死体がゴロゴロの写真が報道操作の最大の秘訣であった。しかし、大量の死体を検視したアメリカ人の医者の検視報告書も、その医者本人の著書もある。一体といえども薬物による死体はなかったのだが、この報告書はアメリカ軍の官僚機構の中に埋もれたままになっていたのである。

引用元:「ガス室」裁判訴状

このように収容所にガス室が無かったことが分かりますね。まさに支那事変での南京大虐殺の捏造と変わらないです。南京大虐殺の論争が起きたのは冷戦終結後からです。それまで、支那政府は日本に南京大虐殺の話題を持ち出しませんでした。支那政府が反日教育を本格的に行い始めたのは千九百八十九年の六四天安門事件での民主化運動鎮圧がきっかけです。この事件で支那は世界各国から経済制裁を受けていましたが、日本の天皇の支那訪問によって経済制裁を解除させる羽目になりました。支那政府は天安門事件の揉み消しと支那国民の蜂起を防ぐために当時の支那共産党総書記の江沢民が本格的に反日教育を行うようになりました。江沢民の実父の江世俊は、支那事変当時の日本軍の占領下の江蘇省で日本の特務機関の「極司非爾路七十六號」に協力をしており、支那事変当時の親日政権の汪兆銘の南京政府の閣僚でした。即ち、現在反日を国是としている支那共産党政権から見ると彼は漢奸(支那で言うところの売国奴)の息子と言うことです。国共内戦で支那共産党が勝利すると江沢民は贅沢な暮らしを求めるために、自らを「早年に支那共産党に加入して、後に匪賊に殺害された叔父の江世侯(上青)の養子となった」と偽証して、この関係を利用して数年間で下級幹部から電子工業部の副部長へと昇進したのです。彼が上海市共産党委員会書記に在任中、毎年上海で春節を過ごす李先念や陳雲などの共産党内の元老に対して媚びへつらい、六四天安門事件の報道統制をきっかけに共産党の総書記までのし上がったのです。このように彼の昇進は実力ではなく、上層部に只管に胡麻を擂って、人間関係を上手く立ち回ったためであることは明らかです。江沢民に限らず多くの支那共産党の上層部は日本の政治家(エジプトのカイロ大学を卒業したと偽る小池百合子など)と同じように経歴を詐称しており、嘘に嘘を重ねて上層部に媚びへつらうことでのし上がっているように感じます。

ホロコースト検証について話を戻します。偽ユダヤが政界に大きく影響力を及ぼしている欧州諸国では「自由の敵には自由を与えない」という戦う民主主義を採用して、ホロコーストの検証をナチスの戦争犯罪の正当化・矮小化と見做して刑事罰の対象にしています。ナチスの戦争犯罪を肯定するわけでもなく、ホロコーストの六百万人虐殺は誇大な宣伝だと疑問を持つことすらも禁止するのは言論の自由の侵害に他なりません。日本で言うヘイトスピーチ規制法と変わらないです。

では、ホロコースト捏造と偽イスラエル建国の関係性について見ていきましょう。

次にナチス・ドイツについて見ていきます。当時のドイツを支配していたアドルフ・ヒトラーが自身の生い立ちや世界観、政策等を記した書「我が闘争」は有名ですが、この本の執筆にはローマ・カトリック司祭ベルンハルト・ステンフル (英語版ウィキペディア) が関わっていました。つまり、独裁者ヒトラーの政治的世界観や政策等にローマ・カトリックが関与していたということであり、また、ステンフルは反ユダヤ主義の新聞を発刊していた新聞社ミースバッハー・アンツァイガーの編集長でもありました。一方、米国ではチャールズ・カフリンというカトリック司祭がラジオを用いて反共産主義、反ユダヤ主義を米国で唱え、千九百三十年代の米国の人口一億二千万人の内、推定三千万人がカフリンの毎週の放送を聴いた程の人気を集めていました。このヴェントゥーリ、ステンフル、カフリン等の行いから、「ユダヤ人迫害」にローマ・カトリックが関わっていたのは確かです。そして、ヒトラーの前に首相を務めていたカトリック教徒のフランツ・パーペンは、ドイツのローマ・カトリック司祭且つ中央党 (カトリック教徒の政党) の党首ルートヴィヒ・カースらと共に、ラテラノ条約をムッソリーニと結んだローマ教皇ピウス十一世と政教条約 (ライヒスコンコルダート) を締結し、当時のドイツの大統領でヒトラーを嫌っていたと言われるヒンデンブルク大統領に、ヒトラーを首相に指名してもまったく問題無いと説得し、ヒトラー内閣成立に大きく貢献しました (パーペンはその後、副首相を務めた) 。このように、パーペンがヒトラーに大いに協力していたのは間違いありませんが、戦後のニュルンベルク裁判においてナチス政党を政権につけた者、またオーストリア併合に関与した者として第一起訴事項「共同謀議」と第二起訴事項「平和に対する罪」で起訴された際、不可解なことに無罪とされています。その後、彼はローマ教皇ヨハネ二十三世によって教皇侍従に任命されたり、マルタ騎士団の一員にもなっていることから、パーペンがローマ・カトリックの手先であったことは間違いなく、だからこそ無罪にされたのではないかと考えます (この事からもバチカンの力の大きさが分かる) 。また、政教条約の交渉で中心的な役割を果たしたカースも、中央党党首としてナチスの全権委任法に賛同したことでヒトラーの独裁体制を確立させました。こうした事から、ヒトラーもムッソリーニと同様にローマ・カトリックと癒着していたのは確かだと考えます。「ヒトラーは政教条約締結後もカトリックやイエズス会を激しく弾圧したじゃないか」と考える人も居ると思いますが、それは「確かにバチカンはナチスに協力していた面もあるが、あの時は独裁者ヒトラーに従うより他に無かった。多くの聖職者を弾圧されて失ったバチカンは無力な被害者でもある」と世間に思わせるためであったと某は考えます。なぜなら、ローマ・カトリック、特にイエズス会の者たちはローマ教皇のためなら命をも献げる狂信者の集まりだからです。

彼らは、先述したように反ユダヤ主義運動を推進する一方で、ナチスの偽ユダヤ人に対する迫害に強く反対したり、偽ユダヤ人を保護してナチスから守ってもいます。一方、そのナチスはこちら (幻想の近現代 note) にあるとおり、ドイツ・シオニスト連盟やユダヤ機関からの指令を受けたアングロ・パレスチナ銀行とハーヴァラ協定を結んで、約六万人の偽ユダヤ人の庶民をパレスチナに送っています。そして、ホロコーストの犠牲者たちを追悼するために建てられた偽イスラエルの国立記念館ヤド・ヴァシェムは、二千五百人もの偽ユダヤ人の子供を助けたというカトリック教徒イレーナ・センドラーや、ピエール・シャイエ等の十四人のイエズス会士に「諸国民の中の正義の人」の称号を与えています。これらの事から、ナチス・ドイツがバチカンや偽ユダヤ人の権力者と裏では繋がっていて、偽ユダヤ人の庶民を迫害 (世間で言われているホロコーストの被害者数はかなり誇張されている) することで彼らへの同情を集めさせ、アルバート・パイクの計画どおりに偽イスラエルを多くの支持と共に建国するために用いられたと言えると思います。

引用元:主イエスこそ真の道である「迫り来る闇に呑まれてはならない

このようにナチスはカトリックと共にシオニスト達とグルになって、偽イスラエルの建国に協力していたことが分かります。それどころか、シオニスト政権の幹部はホロコーストのユダヤ人虐殺の責任をパレスチナ人に押し付ける始末です。イランのマフムード・アフマディネジャド大統領はこちらの動画で記者に対して、欧州諸国が自由主義を掲げているのに、ホロコースト検証を認めないのか、ホロコーストをパレスチナ人の責任にするのか問い詰めている点は評価できます。彼の質問に対して西側メディアの記者は回答に窮している様子です。それだけ、西側メディアは日本の報道機関と同様に偏向報道を繰り返していることが分かります。

以上のことからナチスの偽ユダヤ人迫害は事実である一方で、ホロコースト六百万人虐殺は「世界で最も悲劇な民族」と被害者面して国際社会からの同情を買うことで偽イスラエルを建国するために作られた世界最大の捏造だと分かります。

 

画像引用元:「ホロコーストは作り話である」

 

五、結び

以上のように現代の中東のイスラエルとユダヤ人は偽物であることがお分かり頂けたのかと思います。巷では日本人の祖先は現代のユダヤ人と考える日ユ同祖論なるものが広がっていますが、日本人はハプログループD系統の遺伝子を持っていることからテュルク系民族に特徴的な遺伝子Y染色体ハプログループC2系統、O系統、N系統などを持っていたと考えられるハザール系偽ユダヤ人との遺伝的な接点など見受けられないために嘘であると分かります。しかし、真の古代イスラエル民族は日本人と同じハプログループD系統の遺伝子を持っていることから、日本に渡来していることは歴史的事実であり日本と聖書は無関係では在りません。

 

イザヤ書‬二十四章十四節〜十五節‬ 新共同訳‬

彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い 海から叫び声をあげる。 それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び 海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。

 

紀元前七百二十二年頃にアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされた後に、北部に定住していた十部族たちはシルクロードや海の道を経て、大陸各地に移住して最終的に日本に行き着いたとされています。紀元前五百八十六年にバビロンに南ユダ王国が滅ぼされてバビロン捕囚の憂き目に遭い、ペルシアとギリシア・マケドニアの支配を経てローマの属州となり、紀元後七十三年にユダヤ戦争でローマ帝国によって滅ぼされ、残りの二部族のユダ族とベニヤミン族も日本に上陸して、彼らと合流したとも言われます。詳しくは真の聖書福音と預言のミカエル氏の過去記事「日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人」が参考になります。

日本人の約四割が古代イスラエル民族の末裔であることは歴史的事実だと言えます。しかし、現代の歴史教育でそのことを教えないのは日本人にとって悲劇と言えます。皆さん、今こそ、日本の真の歴史を見つめ直す時が来たのではありませんか。

 

本当に大艱難まで残された時間は少ないです。一人でも多くの人々が聖書(偽使徒パウロの書簡とパウロの腹心のルカが書いたルカによる福音書と使徒言行録の一部を除く)を手に取って読むことをおすすめします。

 

最後までご覧頂き有難うございました。