先日、羽田の魚屋に新海苔を買いに行った時、魚屋の大将に女房の死を伝えた。
その帰り際、「此れ、奥さんに!」と大将が武骨な手で差し出してくれたのが、小肌酢。
以前大将の兄さんが亡くなり、気落ちした大将が店を閉めていた時が有る。閉店していた店を見て後日心配になり再び店を訪れると、何とか店を開けたと大将が言った。
その後、大将を元気づけようと店を訪れて手土産を手渡すと、満面の笑みでそれを受け取ってくれた。
今回はその逆、アタシははたして満面の笑みで、この小肌を受け取る事が出来ただろうか、手前じゃ解らない。
持ち帰った小肌は早速仏壇に供え「魚屋の大将がくれたよ!」と、女房の遺影に向かって声を掛けた。
翌日、頂いた小肌と言うよりもこの大きさならコノシロで、握り寿司を作ることにした、
握った寿司は毎回庭から摘んできた葉蘭に載せる、てんで、早速葉蘭とそれを敷く、大皿を引っ張り出した。
染付秋草図尺皿、この手の作品を見て、有田の窯屋がアタシが作った釉薬を言い当てたのは、銀座松屋の個展会場。
青味がかった釉薬は、釉薬材料に使った灰の成分。呉須も勿論、アタシが調合して作ったオリジナル。
水を少なめにしてオマンマを炊き、炊きあがった飯にかけ回すのは酢と塩だけ。硬めに焚いたオマンマが酢を吸い、丁度良い具合のシャリになるようにするのが、腕の見せどころ。
小肌に比べ大きなコノシロを握るには、御覧の様にネタを半分にしたが、それでもネタが大きいので、握りもそれに合わせて大きくなった。
オマンマを焚くと先ずはそれを仏飯器に装い、仏壇に供えるのだが、この時は酢飯を作る事で頭がいっぱいで、忘れてしまった。
それを思い出したのは、小肌の握りを食った後。こりゃ仏様に申し訳ないことをしたと、慌てて握りを一つ作り御覧の様にして、仏壇に供えた。
アタシも亡き女房やお袋も小肌が好き、江戸っ子には小肌好きが多い。
九段下にある江戸時代から続く寿司屋に行くと、握りを食う前、生物と小肌だけの握りを食ったもんだった。後年その握りは無くなったが、カウンターに座ると必ず小肌から注文をした。
ある時、出された小肌を見「三日目?」と馴染みの板さんに問うと、「三日目です!」と答えた。小肌の色を見て、酢に漬けたのが三日前かと尋ねたのである。
腕の良い板さんと、料理を摘みながらの馬鹿っ話が好きなアタシに、板さんも色々と話しかけてくれる。
「柳橋は如何?」とか「二天門・人形町は?」と問う板さんに、その古い店で食った寿司の感想を言う。
昭和の終わりから、日本文化が急速に衰退し始めた。衣食住全てが有史以来最低、それが年々悪くなる。この中の食の衰退もひでぇーもん、まともな寿司屋が姿を消していった。
アタシが東京一だと思っていた、高輪泉岳寺参道にあった寿司屋のテッチャンは、数年前に亡くなった。テッチャンのお袋さんがアタシのお袋の和裁のお弟子さん、てぇのもあって、深い付き合いをしてい御仁。
今時の寿司はシャリに酢が利いていない、上記の九段の寿司屋も出店の池袋西武店と、横浜そごう店の握りは本店とは味が違う。
そこで馴染みの板さんに「酢を利かしたんじゃ、今の奴らの口には合わねぇんだろう?」と言うと「そうです!」と。
どちらの店へも出向き、その味は確かめてある。そごうの店に行った時は、洋服だったのにも関わらず、アタシの話しっぷり覚えていてくれた板さんが、「九段に着物姿で来ていたでしょ」だと・・・。
味が解らねぇくせに、ハンチクな能書きを抜かす野郎が増えて来た。そんな奴らの相手をしなくちゃならない板さんが、可哀そう。
高輪のテッチャンはそんなことは絶対しない、寿司職人。俺、偏屈なんだと言っていたが、曲がった事が大嫌いな真っ当な職人気質。アタシとそっくりだったので、スゲー気が合った。
そんなテッチャンや九段の寿司職人もアタシと同じ考え、それは「新子なんぞは、旨かぇねぇ・・・・」ここ10年ほど、新子がもてはやされ、河岸での競り値がうなぎのぼり。
マスコミ・本などの影響で、旨くもない新子を有難がる野郎が増えてきた。正月の墓参りの帰りに寄ったら店仕舞をしていた、目黒の寿司屋の板さんも、同じ考えだった。
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