「南京大虐殺など見たことも聞いたこともない」と証言する人たちの真相(後編) | 歴史の超真相ブログ〜教科書には嘘しか書かれていない~

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【嘘をつく理由】
 「たとえ数で上回っているからといって、そっちの元日本兵が嘘をついているかもしれないじゃないか!」という反論をする人がいるかもしれませんが、それはありえません。

 なぜなら、大虐殺なかった派の元日本兵には嘘をつく理由はありますが、大虐殺あった派の元日本兵に嘘をつく理由はないからです。

 元日本兵が南京大虐殺があったことを認めてしまうと、その人は世間から一生白い目で見られ、大変つらい人生をおくることになります。そのため「南京大虐殺など知らない」と嘘をつかざるをえないのです。

 そんな中、ごく一部の人たちではありますが、松岡環の取材に対して「南京大虐殺は事実だ」と打ち明けてくれた人たちがいたのです。

 きっと彼らは正義と、日本軍に虐殺された中国の方たちの魂の安らぎのために、世間から白い目で見られるのを覚悟で真実を告白したのでしょう。

 ちなみに彼らの言葉にこういうものがあります。

 元第16師団第33聯隊第二大隊の徳田一太郎さん(仮名)の証言。

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 今も東京都の石原慎太郎知事が南京大虐殺はなかったなどと言っているのでも、わしは、石原慎太郎は「馬鹿なことを言っている」と思うんです。南京大虐殺は日本軍と政治家の命令で起こったわけだし、わしらが実際に参加したんやから嘘ではない。
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 元第16師団歩兵第33聯隊第三大隊の井戸直次郎さん(仮名)の証言。

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 南京陥落の日じゃった。城内に入るとき、城壁の外側が死体の山じゃった。足下がフワフワするんで。マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。ずーっと死んどったんじゃ。どの部隊がやったかは知らんが、突き殺したんやな。兵隊やなしに、女も子供もおった。爺さんも婆さんもおった、兵隊やないもんばっかりじゃ。どこの部隊がやったのか知らんが、新聞でよう言う“南京の虐殺”って、まったく本当のことじゃが、そんなこと言えんもんで、「嘘」や言うとるんじゃ。
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 もう1つ。清水潔〈「南京事件」を調査せよ〉から引用します。

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 海軍兵士の取材の終わりに、私は彼に尋ねてみた。

 「南京大虐殺はなかったと言う人がいますが?」

 彼はじっと遠くを見つめて言った。

 「『なかった』と言うのは、本当は、あったことを知っているから言っているのだと思います」
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 ……これで嘘をついているのが、大虐殺なかった派の元日本兵であることがわかってもらえたと思います。

【記者たちに報道の自由はあったのか?】
 では、「南京大虐殺など知らない」と証言する記者たちはどうなのか?

 田中正明〈南京事件の総括〉から引用します。

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 教科書には「日本国民には知らされなかった」(中教出版)とある。それならば、「南京事件」についてしゃへってはいけない、書いてもいけない、という箝口令が軍なり政府なりから出ていたのであろうか。

 答えは全然「ノウ」である。

 「虐殺派」の中には、戦争中、とくに昭和12年末から13年の春にかけて、かくかくの発禁処分や処罰を受けたものがいるといって、あたかも南京事件にかんして箝口令が布かれていたかのごとく言う論者もいるが、その内実を見ると、それらはことごとく〈流言蜚語〉に類するもので、流言蜚語取締法に触れたもののリストアップであって、南京事件とはなんら関係ないのである。(中略)

 筆者は取材中、参戦した将兵の方々に、最後に必ず次のような質問をすることにしている。

「南京事件にかんして、しゃべってはいけない、書いてはならぬ、といった箝口令のようなものが上官からありましたか」と。答えは一様に「とんでもない、なにもありませんよ」という返事であった。同じことを従軍記者の方々にもきいてみた。やはり同様「全然ありません、ただし自主規制はしていましたがね、これは報道にたずさわる者の常識です」。これが特派員諸子の異口同音の声であった。
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 ところが読売新聞の小俣行男という記者の言葉にこういうものがあるんです。

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 「書いたところで記事にならない上、処分されるに決まっていたから、もっぱら“皇軍の勇戦”ぶりしか書けなかった」
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 清水潔はいいます。

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 当時は厳しい報道統制が敷かれていた。

 1909年に成立した「新聞紙法」である。記事のゲラを提出し、検閲を受けねば発刊できなくなっていた。

 今、ネットで「不許可」と写真検索すれば、赤いハンコを押され検閲を通らなかった写真などを見ることができる。権力が目的を達成しようとするとき、不都合で邪魔な「報道」は潰してくる。そして都合のいい「広報」だけをさせる。その後の流れはいわゆる「大本営発表」へと続いていった。
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 田中正明によると当時の日本に箝口令などなく、なんでも自由に報道できるかのように言っていますが、実際はまったくそんなことはなかったのです。

 今井正剛、鈴木二郎、守山義雄など、大虐殺あった派の記者も少数ながらおり、田中正明は彼らの証言を「虚構」の一言で片付けているのですが、少数派の記者たちこそが真実を言っていたことがわかると思います。

【まとめ】
 ●当時の日本には厳しい報道統制が敷かれていた。