✳️【南京には20万人しかいなかった】
最大の争点、犠牲者数については「起訴状」はこう言う。
「中国人は少なくとも30万人以上、南京で虐殺された」
小林よしのり まずは陪審員のみなさんに当時の南京がどのような状態だったのか知ってもらう必要があります。
南京は総面積35平方キロ、周囲を高さ12メートル、厚さ6〜12メートルの城壁に囲まれた城塞都市です。
1937年11月、南京攻略戦の前にすでに富裕階級は南京を脱出。
蒋介石も南京放棄を決定。政府機関は撤退。残っていたのは中国軍兵士と貧民だけでした。
南京城の外は中国軍が「清野作戦」で半径16キロを焼き払ってしまったので無人状態でした。
南京に残った市民は南京中心部に設定された「難民区」に殺到。
地域を管理するため設けられた安全区委員会も「われわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記しています。
つまり南京城内外の非戦闘員はほとんどすべて安全区の中にすし詰めで、その外には中国兵しかいなかった。
では安全区の中には何人いたのか?
いいですか。ここが最重要のポイントですよ。
安全区委員会委員長ジョン・ラーベが日本大使館に宛てた手紙が残っています。
その手紙には日本軍の南京入城式がおこなわれた12月17日付でこう書いています。
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もし市内の日本兵のあいだでただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
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小林よしのり 安全区委員会にとって最大の仕事は市民の食料を確保することで、何人分の食料が必要か正確に把握することが必要不可欠でした。
彼らは何度も大使館に食糧支援要請などの手紙を出しましたが、一貫して人口「20万人」と記しています。
つまり南京の非戦闘員の人数は確実に、もしくは幾分多めに見積もって20万だったということです。
(亜細亜大学教授、日本「南京」学会会長 東中野修道氏が発掘された超重要史料。「南京の20万市民」…つまり、限られた「安全地帯」のエリアだけではなく、南京全域の人口が20万だと言っているのだ!)
これは南京陥落後そこに居た当事者が記録した第一次資料です。南京事件に関してこれ以上の第一級の史料はないでしょう。
多くても20万人しかいなかった市民を、どうやったら30万人殺せるのですか? 小林よしのり〈新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論2〉より
✔️【真相〈「南京」という言葉の意味〉】
清水潔〈「南京事件」を調査せよ〉から引用します。
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私はラジオ番組に出演することになった。
他局であるTBSからの依頼だった。「Session-22」という番組である。当初は、私の本業と言える「調査報道」についての出演依頼だったのだが、「南京事件」の放送が話題となっていた時期であり、パーソナリティの荻上チキ氏からいきなり話を振られた。私はこの事件における一次資料の重要な意味や、裏付け取材などに触れ、ユネスコ記憶遺産の件についてはまったく偶然だったことなどを説明した。
その際、数日後の同番組に自民党の原田義昭議員がゲスト出演することを聞いた。
「(南京大虐殺を)否定しようとしているときにもかかわらず、申請しようとするのは承服できない」と記者団に語ったあの議員である。
私はリスナーとなってラジオの前でメモをとった。
原田氏は冒頭から飛ばしていた。
「南京の虐殺というような評価にはまったく当たらない。虐殺というのはね、組織的に国家、ないしは権力がね、膨大な数の数千、数万の人間を殺すということをね、国際法上はね、虐殺ということになっている」
続けて原田氏は否定派の「常套句」を口にした。
「だいたいあそこには十数万人しか南京の市民が住んでいなかった。……それがなんか20万、30万の人間を殺したと。しかも日本軍が殺したかのような表現になっている」
続けてこうであった。
「メディアがあったにもかかわらず、ひとつとして証拠をきちっと示したうえでの写真についてもないんですよ」と捲し立てたのである。
パーソナリティの荻上氏は「南京事件」についてかなりの知識を持っていた。
当時の人口十数万人というのは、南京城内の「安全区」の人口であり南京周辺の人口としては100万人前後と言われていること。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどでは「南京事件」が報じられていることを指摘した。すると原田氏の説明は次第に支離滅裂となり、なぜか荻上氏の名前を「はっとりさん」などと言い間違えてしまう。
荻上氏が、日本政府の見解も「南京事件」を認めているが、と重ねて尋ねると、原田氏は言った。
「表現にもよりますけどね、それこそね、今の時代だってですよ、……いろいろな事件、殺害がおこなわれていますからね。しかし戦中の一番難しい時期ですから、混乱したときだから、そりゃなかったとはいいませんけども……」
なかったとはいいません……。
スピーカーから飛び出したその声を聞いた私は自分の耳を疑った。散々否定しながら突然に肯定したのである。しかしすぐに立て直し、「全体としては、間違いなく捏造だと思っています」と、結局は根拠のない言葉をまた繰り返した。
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大虐殺なかった派は南京のことを「20万人都市」と言い続けていますが、20万人というのはあくまで南京城内の安全区(または南京城内)の人口にすぎないというわけなのです。
【南京の広さ】
また、小林よしのりは南京の総面積を「35平方キロ」などと言っていますが、南京特別市の行政区には六合(ろくごう)、江浦(こうほ)、江寧(こうねい)、高淳(こうじゅん)などの6県も含まれており、全面積は東京都、埼玉県、神奈川県を合わせた広さに匹敵するそうです。
【当時の南京の人口】
そんな南京の当時の人口は、金陵大学社会学教授ルイス・スマイスの調査と笠原十九司の計算によると、150万人を超えていたそうです。
【大虐殺なかった派の稚拙なトリック】
「し、しかし、だからといって、南京城内の安全区の人口が20万人だったことは事実であり、安全区内で30万人も殺せるわけがないという主張に矛盾はないだろう?」という反論をする人がいるかもしれませんが、これは稚拙な論点のスリカエにすぎません。
なぜなら事件の通称は「南京大虐殺」であって「南京城内安全区大虐殺」ではないからです(笑)。
南京大虐殺の「南京」とは、広大な南京特別市全体を指す言葉であり、大虐殺なかった派は自分たちで勝手に都合よく「南京城内安全区の中の話」にしてしまっているだけなのです。
これで大虐殺なかった派の常套句「20万人都市の南京で、どうすれば30万人を殺せるのだ?」が、論外のバカ発言であることがわかってもらえたと思います。
【まとめ】
●南京大虐殺の「南京」とは、広大な南京特別市全体を指す言葉である。
●当時の南京には150万人以上の中国人が住んでいた。