■愛は中毒なの?(アミ 小さな宇宙人)■ | 人生は自らデザインする!

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(アミ 小さな宇宙人)より

「なにかに、あるいは誰かに依存しすぎるっていうのは、
それがたとえ双子の魂でも、お母さんでも、子どもでも、
おばさんでも、ネコでも、好きな虫でも
何でもよくないことだよ。
だって、それは人々を奴隷化して、
魂の自由をうばってしまうことになるからね。
でも、魂の自由なしには、
ほんとうの幸せなんてありえないからね。」

「じゃ、愛は中毒なの?」(ペドゥリート)
「もし、幸せになるのがほかのひとしだいだとしたら、
そうだよね。」

「でも、それが愛というものよ?アミ」(ビンカ)
「それは執着だよ。依存だし、中毒だよ。
ほんとうの愛は与えるものだよ。
愛する人の幸福に、幸せを感じられることだ。
いつも自分のそばにいることを強要したり、
ひとりじめしたりすることでなくてね。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは。

どうやらわたしたちが通常「愛」と呼んでいるものは
本当の「愛」ではなく、「中毒」や「依存」らしいです。

確かに「中毒」も「依存」も
自分の意識が常に「それ」に向いているので
自分は「それ」が大好きで大好きで
自分にとってそれは何やら特別なものなのだと
自分にとって絶対に必要なものなのだと
そんな風に思ってしまうんですね。

それを人に対して発動させてしまうと
「愛」と勘違いしてしまうのかもしれません。

わたしはあの人を「愛している」のだと。

しかしその状態は「それ」が「ない」と
自分自身に不足感をもたらし
苦痛を与えることになってしまいます。

「ある」なら幸せ
(一緒にいるなら幸せ)
「ない」なら不幸
(一緒にいないなら不幸)

そんな不安定で不確定なものは
本物の「愛」ではないということなのでしょう。

「ない」ならば不幸になってしまうのだから
なんとしてでも「ある」状態をキープしようと
コントロールしたくなってしまうに違いありません。

それがうまくいかないとなると
今度は相手に対して
「罪の意識」を持つようにアプローチしたり
「責任」を取らせようと迫ったり
まるで脅しのような形で
「それ」が「ある」(その人がいる)状態を
キープしようとしたくなってしまいます。

もしも、もしもですよ
その方法が仮にうまくいったとして
本当にわたしは満たされるのでしょうか?
わたしは「愛されている」と実感できるのでしょうか?
わたしは「幸せ」を感じられるのでしょうか?

わたしたちが本当に求めているのは
相手の「気持ち・想い・(本物の)愛」であって
物理的に目の前にいることではありませんよね。


愛していると思える人との出会いに感謝すること
愛する人が存在しているということに感謝すること
愛する人が幸せであることを願い、祈ること
愛する人の幸せを祝福すること
そして
愛する人のために自分自身がまず幸せであること

それが「愛」というものかなと思いました。

ほんとうの愛は与えるもの、という言葉がありました。

感謝も祝福も祈りもすべて
見返りを求めることなくできることだと思うのですが
どうでしょうか?

そして自分で自分を幸せにすること。
感謝も祝福も祈りもすべて
自分が不幸だと思っているとやりづらいですものね(笑)


言うは易し、なのですが
それでもやっぱり目指したいじゃないですか。

ほんのちょっとの歩みでもいいから
ほんものの愛へと近づきたいですね。



最後までお読みいただきありがとうございます。


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アミ小さな宇宙人 (徳間文庫)