宇宙の法則が「拡大・発展」であるならば、わたしたちは歩みを止めただけでその法則からズレてしまうのではないだろうか。「昨日と同じでいい」という感覚は、同じではなく「退化」なのではなかろうか。一歩一歩歩んでいてもその法則の中にあっては景色は同じに見えるのではないだろうか。
スピリチュアル関連が好きな人に多かったりするのですが、一人の大人として、社会人として、常識がない人がいらっしゃいます。社会の一員として通用しない人がどんなに声高に崇高な教えを説いたところで誰も耳を傾けないでしょう。それどころかスピ系が余計に怪しげなものだという認識を生みます。
自分の頭の中にある立体的なことがらを言葉や文字で表現した瞬間、それは平面的なものになってしまう。言葉は制限されたものであり、制限するから表現ができるのだろう。言葉や文字を理解しただけで、すべてを理解したと思うことは勘違いと言えよう。その奥にある立体的なものを感じたいものだ。
この世はすべて両極のものが同時に存在してはじめて存在する。この世の根本は「無」はまだ存在していないが生み出そうとするエネルギー。「有」は存在するが消えようとするエネルギー。そのどちらもが同時に存在する世界。すべては変化するという真理。これを体感すると見えるものが変わってくる。
どんなに気に食わないところが自分の中にあったとしても、一つくらいは何か好きなところがあるんじゃないかな・・・好きなところじゃなくっても不満を感じてないところとかね。でもそれらは自分の両親がいたからそこにそれらは存在するんだよね。両親に感謝することってまだいっぱいあるなぁ。
「与えるにはどうしたらいいですか?」そんな質問に今ならこう答えるかもしれない...与える機会をあなたは「得たい」のでしょうか?その「得たい」という気持ちをなくしたら、自然に与えられる人になるかもしれませんね、と。
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