◉’12/4月のスピ的つぶやき◉ | 人生は自らデザインする!

人生は自らデザインする!

●ココロとカラダ:本当の健康になるためのヒント
●人生を根本から治療する「ライフセラピー」実践法
●「奇跡講座」や「OSHO」などの難解な教えの解説




この世に存在しているということは、この世に自分の居場所がすでに確保されているということ。この世においてあなたの代役は誰にもできないことなのだ。自分の存在そのものへの素晴らしさを感じることができたらあらゆるものへ同じように思うことができる。それがきっと神の視点なのだろう。



人生を少し振り返ってみると、あまりにも多くの声が自分自身をあちこち引っ張り回しているように思えるときがある。しかし、どんなことも後々自分の内なる声に気づいている。混乱してこころ穏やかでないときはその声に気づけない。ただ目の前の処理に追われてしまうだけだ。内なる声と共に生きよう。


教えも学びも薬と同じようにある段階なったら捨てるものだ。癒されたら治ったら薬はもういらない。禁煙も一生禁煙者のままでは苦しい。非喫煙者にならなくてはならない。教えも学びも瞑想も全部捨ててあなた自身のの生そのものを生きるときがくる。そのときあなたは最も美しい人となる。


創造性はわたしたち人間に与えられた素晴らしいギフトである。しかし何かを創造するための技術や知識や熟練というのは単なる道具であろう。そこにはやはり言葉ではとうていあらわせない神秘があるのではないだろうか。その神秘さを感じて受け取ることができるかどうかが大切なことだと思う。

真心から何かを創造したとき、それは神秘性を帯び、本当の喜びを体験することになるだろう。それが一見単なる自己満足のものに見えたとしても、それは必ず他の人たちの役に立つことであるにちがいない。なぜなら自分はこの世に必要な存在としてここにあるのだから。神秘に満ちればそれは神のおこない。


世の中は悟った人を決して好まないだろう。悟った人や光明を得た人は、CMを見て何かを購入したりしない。流行を追うこともない。誰かや世の中に迎合したりすることもなければ常識に振り回されることもない。不要なものを求めることはないからだ。悟った人が増えたら経済は破綻するのだろうか。。。



悟った人は世間に屈することがない。だから世間は彼らを決して認めない。世間に受け入れられることは難しいだろう。世間という名の大衆はこころが乱されるからだ。何かを突きつけられるからだ。だからといってそれがどうだと言うのだろう。悟った人は世間がどうあろうと飄々としているに違いない。


「無」とは何だろう?「nothing」という意味だろうか。。。何も無いという意味なのか?私はそうは思わない。OSHOも言っているが「no-thing」だと思うのだ。まだ「thing」という「物」「事」に顕現されて「無い」だけであって、すべての種や可能性がそこには「ある」と思う。



私たちの一瞬一瞬は素晴らしく尊いものである。その一瞬が人生をつくり出す。しかし宇宙は自然に始まり自然に終わるのだとしたら。すべてが自然のはたらきだとしたら。私たちはなぜそんなに神経質になったり不安や恐れを抱いたり絶望までも自分でつくり出してしまうのだろう。自然でいいときもあるよ。


私たちが「愛」と呼ぶものは一体なんだろう?親子愛・夫婦愛・兄弟愛・師弟愛・・・私たちは簡単に「愛」という言葉を口にするけど愛とは何かを知っていて使っている人はどれだけいるのだろう。愛の形容として思ったのは「決してなくならないもの」。そういう意味で愛と出会うのは困難かもしれない。



エゴは自分の身を守るため、命をつなぐために必要不可欠である。しかしエゴは賢いがゆえに私たちを惑わしたり本来の歩みを止めようとすることがある。過去の記憶という負荷をかけたり、また、将来の計画という負荷もかけてくるからだ。エゴの賢さを捨ててみたらもっと軽やかに生きられるだろうね。