明けましておめでとうございます!本年もよろしくお願いいたします♪元日にアップしたものがアップできていなかったというのも何か大きな意味があるのでしょう。今年一年は今までにないことが起きる予感です。もちろん招福の意味ですが。。。枠をこわすこと。。。キーワードになりそうですね。
自我というのは自分のからだを守るためにある。とすれば、人間の迷いのうち最も大きなものは「生への執着」だろう。死への恐怖がなくなったときに悟ることができるのだろうか。自然の変化に従ってそれを無心に受け入れることが大切なのだろうか。それだけではない何かが「人の道」にはある気がする。
神社などの神域は昔々の気がわかる人たちが大切にしようと守ってきた場所である。守るべき神聖な場所が今やその気を荒らしに行っている場合も多いのではないか。神域はおかげや幸運などを「もらいにいく」場所ではない。自分自身の大切な何か・・・「感謝や意志」などを「おきにいく」ところだと思う。
真の認識は言葉では表現できない。本に表現されている言葉も著者が体得した真理そのものではない。言葉は「何かを指す指」の役割であって「何かそのもの」ではない。言外の意味こそ大切だと思う。それは自分自身で感じて会得するしかない。しかしその方法を表現するのもまた同様で骨が折れる(笑)
人間が自分自身で感じたり考えたりすることができなくなればなるほど、道徳や法律などがより細かく必要となってくる。自分自身をより窮屈にさせるものが増えてくる。自分が自由でいたいなら、軽やかでいたいなら、誰かに決められる前に、支配される前に、心豊かに生きることなのではないかと思う。
自然のはたらきはそれぞれに長所がある。それが互いに調和してこの自然を形作っている。自分の足りないことを嘆き、人をうらやんでも自分の望み通りにはならない。自分の中の自然とはいったい何なのか。自分の中の調和とはどういうことなのか。年に一度くらい考えてみるのも良いかもしれないね。
スピリチュアル好きな人の中には、昔の賢者はこう言った、今有名なあの人はこう言っているなどと大量の知識を嬉々として話す人がいる。確かに知識はあなたを偉大な人に見せるけれど、同時に自身の小ささを忘れさせてしまうことがあるよ。あなた自身の言葉が聞きたいんだけどな。それがスピリチュアル。
井の中の蛙とは自分の狭い知識に囚われて広い世界があることを知らないことのたとえだけど、ある意味それは幸せだと言える。無知だと気づかずにすむし比べるものもない。自由に楽しく暮らせるのだ。しかしその井戸の外に出たみたいと思うのも、どうなってるのか知りたくなるのも、人というものだよね。
もっとよりよく生きたい!もっと素敵な人になりたい!もっと幸せになりたい!きっとそういう気持ちから、本を読んだりセミナーを受けたりし始めたのだと思うけれど、いつの間にかその世界に迷い込んで抜け出せなくなっている人もいるのでは?真似をしてるうちに自分自身を見失うことがないようにね。
地位や名誉や贅沢は世俗の人にとっては必要であり大切なものであるかもしれないが、仙人にとっては未練などないだろうし、むしろ面倒なものなのかもしれない。地位や名誉など、あるが故に奪われる不安と戦わねばならず、維持するためには苦痛を伴うこともあるだろう。仙人には不自由に見えるだろうね。
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