自分が最高だと思う食物や本、音楽や絵画などは絶対的なものではない。だから自分が欲するものを人にあげても喜ばれるとはかぎらない。極端な人は「それならあげることは損だし無意味」と言うかもしれないが、それでも人を思いやり続けることが大切だ。少なくとも「思い」というエネルギーはあげてる。
役に立たない木は伐採されないけれど、役に立たなくなった物は棄てられる。ならば、役に立つと役に立たないのどちらが自分の身を守れるのだろう?答えはどちらもノーであるう。他者の基準や評価で自分の言動を決めている以上、他者の心一つで自分の人生が変わってしまう。自分の「道」が一番安全だね。
人の役に立とうとして智恵を出しても、それをふりかざして他者をおそれさせたら誰も受け入れてはくれない。他者は感心するどころかエゴが暴れて妬んだり嫌ったりしてしまう。能力はひけらかすのではなく控えめにして小出しにするのがちょうどいい。そうすれば「自然な発展」をするんじゃないかな。
未経験の料理をレシピを見ながら作るとき。何を作るのかという目的とレシピの手順を最後まで見て理解してから作った方がスムーズである。行き当たりばったりで作ると、鍋やフライパンも無駄に使って洗いものが増えたり、想定外のことが起きてもアドリブがきかない。人生でも同じことが言えると思う。
知りたい、教えてほしいと言って他者からのアドバイスを求める。しかしその内容に感情が暴れたり気にくわないと言って不平不満を言うのは自分のエゴの部分に他ならない。天は自分がその気になりさえすれば、いつでも気づき学べるように取り計らっている。受け取る気もないのに欲しがるものではないね。
人はよく、目の前の利益にとらわれてその背後にある危険をすっかり忘れてしまう。逆も然り。目の前の不都合が「全」から見ればどんなに有益かに気づくことができない。しかしながら「全」から見る境地というのは「神の視点」に他ならない。道は遠そうだが、トライし続けなければまた近づきもしない。
直感に従って行動し、すべてがスムーズに進んだりすると、直感のスゴさにあらためて驚かされる。こんな日が毎日だったらどんなに素晴らしいだろうと思うけれど、そんな毎日がきっと仙人のような暮らしなのかなぁと思う。今日は何だか空も飛べそうな気分だ。
ご縁や人との結びつきはいろいろある。利害で結びついていれば利害で離れることになる。天の計らいで結びついていれば天の計らいで離れる。利害関係はわかりやすいけれど、天の計らいはなかなかわかりづらいもの。ならば、あれこれと迷ったり考えるよりも、天のお手並み拝見といこうではないか。
物を購入するときは吟味するけれど、お金についてはどうだろう?物と同じように「気」を感じているだろうか?お金はどんな物にも変化するエネルギー。だから気を学んでいない人でも気がわかりやすい。両手で持って胸に(わかる人は丹田)当ててみるとドキドキしたり嬉しくなったりいろいろわかるかも。
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