毎日あなたは鏡を見る。鏡の中の何を見ている?鏡の中のあなたの「目の中」を見てほしい。「目は口ほどに物を言う」という言葉があるように、目の中にいろいろあらわれている。日によっても違う。ギラギラしている?曇っている?キラキラ輝いている?目の中は体型や洋服や宝石ではごまかせないんだよ。
芸術鑑賞は好きですか?好きじゃない人の中には「わからないから」と言う人も多い。「わかる」って何?多くの人が良いと評価したものを自分はそう思えないからつまらないの?それとも詳しくないから?芸術を鑑賞するのに他者との共感や知識は不要だ。ただ感じればいい。それが感性を磨くってことでは?
実体験を元にしたアドバイスをもらったとき、どう思う?「あんたは出来たって自慢したいの?俺は出来てないって言いたいの?」と卑屈になる人がいる。その人はまだ変わる準備ができてない。過去にしがみついて正当化したいからだ。今後の自分に目を向ければ「ならば自分もできるはず!」と思えるのに。
新たなチェンジ&チャレンジは、リスクを伴う。しかし、変わらないことや冒険しないことで本当に安心・安全が保証されるの?人生いろいろ迷うことも戸惑うこともたくさんある。でも「何がしたいの?どう生きたいの?」という答えに従ってみようよ。自分の「可能性」を信じる道を選んでみませんか?
チャンスは前からやってくる。前を向いているからチャンスが来たとわかる。わかるから今持ってるものを手放して、そのチャンスをつかむことができる。後ろ向きでいると、チャンスが過去へ流れていくのが見える。見えるけどつかめない。でも前向きは風という抵抗を受ける。その風は本当は気持ちがいい。
無能だと評価された人が別の場所では有能だと評価される。無能も有能も絶対的なものでは決してないのだが、自分は無能だと決めつけると無能と評価された環境からは決して「卒業」することはない。「逃避」は可能だけれど。どんな環境や評価であれ、ベストを尽くしていれば、卒業の時期は自分でわかる。
知っていると思い込んでいることが実は知らないことかもしれないし、わからないと決めてかかっていることが実はわかっていることなのかもしれない。無能と有能と同じように、「知っている」「知らない」もまた絶対的なものではなく相対的なものだ。よく考えてみると絶対的なものってあるのだろうか?
自分の意志ではなく新たなチャレンジを求められると、不安で気が重くてやる気も起きない。しかし、後から「なぜあんなにイヤだったのか?」と思うくらい当たり前になっている自分がいる。やらざるを得ないからやれたのだと思うけど、道を拓く人はそういうことを自ら進んで行動できる人なのだろうね。
弁論が上手いからといって相手を打ち負かしたところで、本当に「勝」なのだろうか。営業トークが上手いからといって仕事を取ったところで、本当に「勝」なのだろうか。本当の勝負は自分が「勝」と思ったところからスタートするというのに。本当の「価値」はその後の自分の行動が決めるというのにね。
荘子が言うには、薪で火を保ち続けるとき、一本一本の薪は燃え尽きるが火そのものは尽きることがない。薪は個体の生命で火は生命そのもので無限であるという。確かに形ある物はいずれ死ぬが、精神や思想は伝えていけば滅びることはない。「生」を全うするということは「精神」を全うすることなんだね。
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