【梅村先生の様になれたら】 | 村の黒うさぎのブログ 

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大自然の中で育って、都会の結婚生活へ。日常生活の中のイベント、出来事、雑感を、エッセイにしています。脚色はせず、ありのままに書き続けて来ました。

 

短大のキャンパスの木陰を、梅村先生は歩いていた。ショートヘアに長身でほっそりしたスタイル。ミディ丈の水色のワンピースに、クリスタルなストーンをちりばめた、長めのネックレスをコーディネートしている。
木陰から日向に出ると、梅村先生は、 手にしていた書類挟みで頭を覆った。すれ違う私達学生の視線に気付いて、ちょっと照れくさそうに書類挟みを下ろした先生。
そのファッションと仕草、 梅村先生はその日一段と美しかった。

「教養ある品性ある美しい女性になるには、 英単語ひとつから始まる」
私はルーズリーフにそう書いて、普段使う下敷きに挟んで持ち歩いていた。
高校生の時、女帝エカテリーナの伝記を読んだ。北ドイツ地方の貴族の娘・エカテリーナは、子供の頃容姿に恵まれなかった。"深い知性と教養"で美しくなることを目指して、日々勉学に励んだ、と伝記にある。この逸話が、私の意識に何時もあった。
進学先も決まり、高校三年生の私は、心新たに、幾つもの希望を抱いていた。素敵な女性になりたいと、向上心に満ちていた。

進学すると、意外に直ぐに、私の理想を体現している人に出逢えた。それが梅村先生だった。
推定年齢50歳。仕草・立ち居振舞い・行書体にくずした文字を、黒板に連ねる様・服装のセンス・身の回り品。その存在そのものが美しい、とても品ある先生だった。
「花の命は短い」と言われている。でも、梅村先生の様に素敵になれるのならば、歳の取りがいがあると思った。
私も、20年後、30年後には、梅村先生の様に素敵になりたい。
そんな姿を目指していた。

梅村先生は、調理学・調理実習・病態栄養学各論・特殊栄養学等を教えていた。「栄養士養成過程」の、真髄がご専門な先生だった。短大の教授でいらっしゃった。

調理実習を教える前日には、きっと家庭料理で授業の予習をなさるのだろう。
「家庭料理なんて、凄いだろうね」
クラスメートの間での噂だった。
先生には娘さんがいて、私達と同世代なのだそうだ。中部地方のお嬢さん大学へ通っていた。
「カエルの子はカエルだなぁ」
素直に思った。

梅村先生は、学生に対して厳しい先生だった。例を挙げれば、提出物が期限を過ぎれば受け付けて下さらず、そのまま返却された。
厳しかろうと私は、なお一層、梅村先生のファンであり続けた。

梅村先生は、厳しいだけの方でなく、ちょっとした隙には、その可愛いらしさを垣間見た。私が研究室のドアを開けると、同室の先生と、表情豊かにお話していた最中だった。
学食で、調理を受け持った学生を相手に、冗談を言っている。
また、本当に元気を無くしている学生の提出ノートに、激励の温かいお言葉を寄せていたのだそうだ。

卒業も近くになって、梅村先生は、本当はとても優しい先生なのだと、他の先生から聞く機会があった。意外だった。私が、先生は厳しい方と思い込んでいたのは、特定の学生を、決してどんな時にも特別扱いせず、あくまで公平に接していたから、気づかなかったのだと思う。

梅村先生のファンは、私の他にも存在した。
「梅村先生に見とれていて、夢中なうちに時間が経って、気が付くと講義が終っている」さる女子学生は語っていた。
本校の学生の中には、70人程の男子学生もいた。
「梅村先生に、夜の手ほどきを教えて頂きたいのです ○○より
愛する梅村先生へ」
冗談だろうが、机にそんな落書きもあった。


短大を卒業した翌年、私は短大へあそびに行き、梅村先生の研究室にも顔を出した。
「先生の様に美しく歳を取れるなら、歳の取りがいがあると思うんです」
「うさぎさん、私、耳が痛い」
「?」
意味の分からなかった私に、隣にいた男性の先生が教えてくれた。
「梅村先生、歳じゃないって。梅村先生、若いって」

18歳から20歳の女子短大生に、毎日囲まれて過ごしている梅村先生。
卒業してからずっと後に、ある本で、こんな言葉を読んだことがある。
「色白は七難隠す。若さは十四難隠す」
「親の七光り。若さの十四光り」
若さに勝る価値は無いという意味だ。
私も、梅村先生の年齢になってみて思う。
先生の立場から見れば、周囲の短大生の溌剌とした若さは、何物にも勝るものだったのだろうか...

私は、卒業してから地方都市で栄養士として働き、その後「日本栄養士会」に所属しながら、書店でアルバイトをしていた。
独身のうちは変わらず、梅村先生の様に美しい女性になれることが目標だった。

娘を身籠って以来、毎日が必死で、その日その日を過ごすことに夢中だった。子育てに無我夢中だった30代。
娘が大きくなると、実家のお店と畑の世話をする、自営業手伝いと、土地の管理にエネルギーを費やした40代。
そうして、首都圏と実家という二重生活の中、主人との絆を何より大切にして来た、30代から40代の18年間。
娘の進学と同時に私も上京し、三人で暮らせる様になった50代。
梅村先生の様に素敵になれることから、「主人との間柄を大切にすること」に、日々抱く目標は変わっていた。


結婚して首都圏に移り住み、実家に帰省した30歳の夏の折り。
出身短大の隣町の駅ホームで、梅村先生を見かけた。先生の方も、電車内にいる私の姿に気付いて下さり、手を振り合った。
そして、ニコニコして駅舎へと歩いて行かれる梅村先生の後ろ姿を、停車中の車内で見送った。


学生時代から10年を経ていたその日。
梅村先生は私を覚えていて下さったのだった。

エカテリーナ二世