私は福井県生まれですが、父の仕事の関係で小学2年まで名古屋で育ちました。
隣の家の幼馴染とよく探検ごっこして遊んでいました。
割と工場や事務所の跡地が多かったことを覚えています。
事務所に火をつけて逃げた事を今でもハッキリと覚えています。
幼馴染と遊ぶのは楽しかったですが、父の仕事の関係で千葉に引っ越すことになり車の後部座席で泣きながら幼馴染に手を振った記憶があります。
千葉の小学校に転校した私は友達が居なくて、学校では一言も喋らない大人しい子でした。
両親は創価学会だったので、家に帰れば勤行が待っていました。
小学生の私には苦痛以外何ものでもなかったです。
父はアルコール依存症で酒乱でした。
よくワンカップを買いに行かされていました。
母に暴力を振るっていた事もあります。
父は怖い存在でしたし、友達も居なかった私は、学校や家にも居場所はありませんでした。
地元の少年野球チームに入っていましたが、全国大会で優勝するなどの強豪チームなので監督、コーチはとても厳しかったです。
練習は土曜日の学校が終わった後と日曜日にありました。
野球は好きでしたが、練習が厳しく、休みたい気持ちでいっぱいで、嫌々行っていた感じでした。
包丁で指切って休んだときはとても嬉しかったです。
そんな生活を送っていた小学5年生の時に、アルコール依存症の父は38歳でこの世を去りました。
父は静岡出身なので静岡まで葬式に行きましたが、怖かった父が死んでも悲しい気持ちは全くありまりませんでした。
父が亡くなった後に何かが開放されたように私は人前に自分から出るようになりました。
しかし、今までコミュニケーションをとっていなかった私には人と話すことが出来ませんでした。
その代わりに、リレーのアンカーをやったり、応援団長をやったり、一発芸をやったりと自分なりに人前に出るようにしました。
中学生になった私は野球部と応援団に入りました。
しかし相変わらずコミュニケーションが上手く取れずに友達が出来ませんでした。
担任の先生が帰りの会で「ようじろうタイム」作ってくれました。
1~2分一発芸をやるためだけの時間を作ってくれました。
何故、その時間を私にくれたかは覚えてませんが、毎日何をするか考えるのが好きでした。
それから友達が私の所に寄ってくるようになり話は上手く出来ませんでしたが友達が出来ました。
中学2年になりクラス替えになった私は更に友達が出来ました。
その頃からお酒を興味本位で飲み始めました。
5~6人で公園で野宿をしながら酒を飲んで居ました。
コミュニケーションが下手だった私でしたが、酒を飲むと陽気になって上手く話せるようになり、酒は魔法の薬だと思ってました。
中学生だったのでバイトはできなかったので親にお金を貰って酒を買ったり、万引きして酒を手に入れていました。
私は友達と酒を飲むのが好きになり、中学3年に上がった頃には一人でも飲むようになりました。
特に、ビール、ウイスキーが好きでした。
友達に「家で一人で酒を飲む?」と聞いてもみんな「一人で飲んでもつまらない」と返されました。
こんなに美味しくて、酔える魔法の薬を飲まないなんて私には不思議でなりませんでした。
彼女が出来て、良くセックスをしていました。
その頃からシンナーも吸い始めました。
幻覚が見えたりして楽しかったです。
よく、原付バイクを盗んで夜乗り回していました。
何回も補導されましたが、懲りずに遊びまくっていました。
高校は行っても行かなくてもどちらでも良い感じだったので工業高校を一校だけ受験し、合格した私は高校へ行く事になりました。
高校に入学しましたが、働きたい気持ちが強くて一年の一学期に高校中退し、千葉の実家の近くで大工を始めました。
16歳で晩酌を始めて、始めのうちは休まずに働いていましたが2~3年すると二日酔いで仕事を休むようになりました。
仕事を休む言い訳もなくなると無断欠勤するようになり、よく先輩に怒られていました。
仕事を覚えてくると、口ばかりで自分より仕事ができない人を見ると「何であいつは俺より仕事が出来ないのに給料が高いんだ」とイライラしながら仕事をしては家に帰ったらヤケ酒の繰り返しでした。
ヤケ酒しては深酒して、二日酔いで無断欠勤の日々でした。
二十六歳の時はどん底でした。
アルコール依存症と診断され入院、離婚、自己破産、友達の死、私は自暴自棄になりました。
私は快楽を求めるために酒を飲み、苦痛や孤独から逃れるために酒を飲み続けました。
入退院を繰り返してアルコール性てんかんで何度も倒れ救急車で運ばれても、酒を止めることはできませんでした。
二十八歳の時には酔っぱらって傷害事件を起こして二年間刑務所に入りました。
塀の中では「今度こそは酒を止めて幸せな人生を送るんだ」と何度も思いながら、指折り出所の日を待ち望んでいましたが出所した日の翌日から仕事だった為、早く寝ようとしましたが眠れずに寝酒が原因で、元の飲んだくれた生活に戻りました。
私は出所後パソコンを購入してネットゲームを始めました。
一日中仕事もしないで酒を飲みながらゲームをしていました。
そこでネットを通じて七年前、一人の女性と知り合いました。
彼女は私がアルコール依存症だということを知ったうえで交際し彼女の娘と三人で同棲を始めました。
飲んだくれの生活は変わりませんでした。
酒を飲んでいる時、私が「おかわり」と言うと彼女は焼酎を作ってくれました。
「酒が無くなりそうだから買ってこい」と言うと夜中でもコンビニまで酒を買いに行ってくれました。
私は彼女の気持ちも考えずにひたすら酒を飲み続けました。
そんな生活を送っていた四年前、私は酩酊状態で家中の物を破壊し、彼女を何度も殴り、二人の信頼を裏切り心と体を傷つけました。
私は逮捕されて二回目の刑務所行きとなりました。
彼女は自分の力で何とかしてあげたいと思っていたようでしたが、どうすることもできなくなり苦渋の決断で私を刑務所にいれたことがわかりました。
しかし、出所後、再び酒に手に出し二人の期待を裏切るように元の生活にもどりました。
そんな生活を送っていた一昨年、若い女の人の幻覚を毎日見るようになり体も心も疲れ、いよいよ頭がおかしくなってきたと思った私は町田のよしの病院で八回目の入院をしました。
そこで初めて大和つくし断酒会に繋がることが出来ました。
今まで断酒会の存在は知っていましたが「一生酒を止めなければいけない」という硬いイメージがあった私は、自分なら飲酒のコントロールが出来ると思っていたし、若かった事もあり断酒会には行きたくなかったです。
しかし、例会に参加してみると皆さん明るく体験談を話し、時には笑いを交えながら話していて断酒会の硬いイメージがなくなりました。
「一日断酒」という言葉が好きでした。
一生酒を止めなければいけないと思っていた私でしたが一日断酒の積み重ねでいいのだと思ったら気が楽になりました。
しかし断酒会に繋がったからといってすぐには酒を止めることはできませんでした。
三回も四回も再飲酒をして一昨年の十二月には千葉の実家に帰り連続飲酒になりましたが実家にいたら断酒は出来ない、でも酒を止めなければいけない、そのためには大和に戻らなければいけないと自分自身と葛藤し、私は離脱症状の中で一升瓶を抱えて大和に電車で戻りました。
例会に恐る恐る行くと「よく戻ってきてくれたね」と言ってくれて私は泣きながら体験談を話しました。
私の居場所は断酒会しかないと思いました。
よしの病院を退院後、神奈川病院へ通院して上條先生の診察治療を受けていました。
初診では厳しいことを言われましたが二回目の診察の時にADHDの疑いがあると言われ、診察を重ねていくうちに私はADHD、反社会性パーソナリティ障害と診断されました。
診察では「こうしたら彼女と上手くいくのじゃないか」「なぜその時こう言わなかったのか」などと時には叱りますが楽な生き方を教えてもらっています。
先生は私にとって断酒の柱でもあり人生の先生です。
私は先生を信頼しています。
断酒会でも多くの人生の先輩がいます。
断酒会ではお酒を止めさせて頂いているだけではなく、人生勉強までさせて頂いています。
断酒には息抜きが必要なので遊びも教えてくれています。
私は今、回復過程に居て、日々少しずつ成長し、今こうして酒歴発表をさせて頂いているのも断酒継続が出来ているからです。
断酒は一人では出来ません。
私は多くの仲間に支えられています。
今回は1人暮らしの寂しさや社会復帰の挫折などからスリップして連続飲酒になり9回目の入院をすることになりましたが、回復へ向かって前に進んでいます。
退院後は3か月~6か月くらいは断酒会めぐりをしながら仕事選びをしていこうと思ってます。
最後に。
私のアルコール依存症の回復とは、断酒の年数を重ねる事だけではありません。
断酒継続していくなかで、自分の根っこの部分にある生きづらさを生きやすさに変えていくことです。
そのためには断酒会にしがみついて離れません。
本当に断酒会に繋がることができて私は幸せです。
私はこれからも焦らずゆっくりとアルコール依存症回復への道を歩んでいきます。