2017年大和つくし断酒会 体験発表(公開版)(断酒375日目) | アルコール依存症回復への道のり〜豊かな感情を求めて〜

アルコール依存症回復への道のり〜豊かな感情を求めて〜

私のアルコール依存症の回復とは幼少期からの生きづらさの克服です。
感謝の気持ち、素直な気持ち、謙虚な姿勢を忘れずに一日断酒を積み重ねていきます。

こんにちは♪

半年前に私が所属している大和つくし断酒会の研修会で体験発表した原稿を読み返していました。

長文で作文みたいな記事ですが良かったら読んでくださいニコニコ

 

 

体験発表

私はアルコール依存症で父もアルコール依存症でした。
父は私が小学五年の時に三十八歳で亡くなりました。
父は酒乱でした。 私も酒乱です。

私は今まで多くの物を壊してきました。多くの人に暴力を振るってきました。
多くの人を傷つけ、そして心配、迷惑をかけてきました。
酒を止めなければいけないと思っていましたが止められませんでした。
暴れては警察沙汰になり留置場に十数回入りましたが酒は止められませんでした。
連続飲酒になり離脱症状で苦しみ「もう、こんな辛い想いは嫌だから今度こそ酒を止めよう」と何度も思いましたが止められませんでした。

離脱症状も辛かったですが友達や家族がアルコール依存症で辛い想いをしていることを理解してくれなかった事が一番辛かったです。
私は四人兄弟の次男ですが兄に病気で辛い想いをしていることを相談しました。
アルコール依存症は節酒が出来ない、酒を飲まずにはいられない病気だと伝えましたが、兄は「そんなの気持ちの問題。意志が弱いだけだ」と私に言いました。私はショックで兄を泣きながら殴りました。

私は酒を飲み酔っぱらうと、寂しさからあちこち夜中でも電話をかけまくる癖があります。終いには誰も電話に出ることがなくなりました。一人、また一人と友達が私から遠ざかるのがわかりました。妹と弟は私から逃げるように実家を出ていき、今でも連絡が取れません。

二十六歳の時はどん底でした。
アルコール依存症と診断され入院、離婚、自己破産、友達の死、私は自暴自棄になりました。私は快楽を求めるために酒を飲み、苦痛や孤独から逃れるために酒を飲み続けました。入退院を繰り返してアルコール性てんかんで何度も倒れ救急車で運ばれても、酒を止めることはできませんでした。

二十八歳の時には酔っぱらって傷害事件を起こして二年間刑務所に入りました。
塀の中では「今度こそは酒を止めて幸せな人生を送るんだ」と何度も思いながら、指折り出所の日を待ち望んでいましたが出所した日に我慢できずに酒を飲み、元の飲んだくれた生活に戻りました。

私は出所後パソコンを購入してネットゲームを始めました。一日中仕事もしないで酒を飲みながらゲームをしていました。
そこでネットを通じて六年前、彼女と知り合いました。
彼女は私がアルコール依存症だということを知ったうえで交際し彼女の娘と三人で同棲を始めました。

飲んだくれの生活は変わりませんでした。酒を飲んでいる時、私が「おかわり」と言うと彼女は焼酎を作ってくれました。「酒が無くなりそうだから買ってこい」と言うと夜中でもコンビニまで酒を買いに行ってくれました。

そんな生活を送っていた三年前、私は酩酊状態で家中の物を破壊し、彼女を何度も殴り、二人の信頼を裏切り心と体を傷つけました。私は逮捕されて二回目の刑務所行きとなりました。

彼女は自分の力で何とかしてあげたいと思っていたようでしたが、どうすることもできなくなり苦渋の決断で私を刑務所にいれたことがわかりました。
しかし、出所後、我慢できず、酒に手に出し二人の期待を裏切るように元の生活にもどりました。

そんな生活を送っていた昨年、若い女の人の幻覚を毎日見るようになり体も心も疲れ、いよいよ頭がおかしくなってきたと思った私は八月に町田のよしの病院で八回目の入院をしました。そこで初めて断酒会に繋がることが出来ました。

今まで断酒会の存在は知っていましたが「一生酒を止めなければいけない」という硬いイメージがあった私は、断酒会には行きたくなかったです。しかし、例会に参加してみると皆さん明るく体験談を話し、時には笑いを交えながら話していて断酒会の硬いイメージがなくなりました。
 「一日断酒」という言葉が好きでした。一生酒を止めなければいけないと思っていた私でしたが一日断酒の積み重ねでいいのだと思ったら気が楽になりました。


しかし断酒会に繋がったからといってすぐには酒を止めることはできませんでした。三回も四回も再飲酒をして十二月には千葉の実家に帰り連続飲酒になりましたが実家にいたら断酒は出来ない、でも酒を止めなければいけない、そのためには大和に戻らなければいけないと自分自身と葛藤し、私は離脱症状の中で一升瓶を抱えて大和に電車で戻りました。
例会に恐る恐る行くと「よく戻ってきてくれたね」と言ってくれて私は泣きながら体験談を話しました。私の居場所は断酒会しかないと思いました。

元旦の七福神めぐりでは色々な神様に「断酒が続きますように」と祈りましたが二日後には酒を飲み神頼みでは断酒は出来ませんでした。一月四日から新たに気を引き締めて断酒を再スタートし今現在まで断酒継続半年が経ちました。

今は神奈川病院へ通院して〇〇先生の診察治療を受けています。
初診では厳しいことを言われましたが二回目の診察の時にADHDの疑いがあると言われ、診察を重ねていくうちに私は注意欠陥多動性障害と診断されました。
診察では「こうしたら彼女と上手くいくのじゃないか」「なぜその時こう言わなかったのか」などと時には叱りますが楽な生き方を教えてもらっています。
先生は私にとって断酒の柱でもあり人生の先生です。私は先生を信頼しています。

断酒会でも多くの人生の先輩がいます。
断酒会ではお酒を止めさせて頂いているだけではなく、人生勉強までさせて頂いています。断酒には息抜きが必要なので遊びも教えてくれています。
私は今、回復過程に居て、日々少しずつ成長し、今こうして檀上にあがって体験発表をさせて頂いているのも断酒継続が出来ているからです。断酒は一人では出来ません。私は多くの仲間に支えられています。本当にありがとうございます。

今まで、一番心配と迷惑をかけてきたのは母です。
今日は母が千葉の実家から来てくれてます。アドリブ
お母さん、いままで色んなことがあったね。警察に捕まるといつも迎えに来てくれたね。てんかんで倒れた時に朝まで隣で付き添ってくれたことあったね。色々な事があったけど断酒会と巡り合えて俺は酒を飲まなくても楽しい人生を送ってるよ。俺の事を育ててくれてありがとう。これからも宜しくね。

彼女へ。アドリブ
三日前にケンカしたね。昨日まで口も聞いてっくれなかったけど、いつも通りに枕元には冷たい水と麦茶と氷枕を用意してくれてありがとう。今日俺の晴れ舞台の為にスーツを買ってくれてありがとう。こんな俺の事をいつもそばで支えてくれているのは〇〇〇だよ。本当に感謝してる。これからも宜しく。

最後に。
私のアルコール依存症の回復とは、断酒の年数を重ねる事だけではありません。
断酒継続していくなかで、自分の根っこの部分にある生きづらさを生きやすさに変えていくことです。
そのためには断酒会にしがみついて離れません。
本当に断酒会に繋がることができて私は幸せです。
私はこれからも愛する〇〇〇と仲良く時にはケンカもしますが焦らずゆっくりとアルコール依存症回復への道を歩んでいきます。

大和つくし断酒会 倉澤陽二郎
 

 

長文でしたが閲覧ありがとうございましたニコニコ

 

 

断酒カレンダー(13日)
・仲間体験談をよく聴き自分の断酒を再確認しよう
・断酒のコツは例会を休まないこと。どんな薄い紙でも何枚も重ねれば、いつかは固い丈夫な板になる。

 

1月13日はたばこの日(ピース記念日)
1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」が発売されたのがこの日です。 発売当初、他のたばこは4円、ピースは10本入り7円でパッケージは鳩のデザインでした。 日曜・祝日のみひとり1箱に限って販売されていましたが、東京・有楽町の売店では、1000箱が1時間で売り切れたといいます。
<366日への旅 記念日編 今日は何の日>

 

最後までお読み頂きありがとうございます。 皆様にとって幸せな一日になりますように。 今日も一日断酒を積み重ねていきましょう♪
 
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