再録…という表現は少し違うかな?
数年前、ひとみ先生の朝日カルチャーの講義を受けに行った際、数年ぶりにサイトで交流していた方々とオフ会でお会いしました。
そのメンバーが、私にとっては古き良き時代(笑)の懐かしい面々だったため、プレゼントの目的で作ったものです。
私のブログやサイトでは公開しておらず、当時配布したメンバーの方がブログやサイトにUPして下さいました。
それから時がたち、その方々と交流していない人も多いだろうと思い、載せてみます。
本当はイラストも付けていて、配布先の方が美しくカラーにしてくださったり…。それも楽しい思い出です。
イラストは、原稿自体も差し上げてしまったので、データも手元にありませんので、文章のみお届けさせていただきます。
設定は、高1~高2の薫と、巽さんでシリアス。
サイトに載せている【慈雨】と表裏一体なイメージで読んでいただければと思います。
【ふたりを隔てるかべ】
僕は起動させていたネットブックを終了させると、窓際に歩み寄った。
木曜日のこの時間、薫は移動教室のために渡り廊下を通るはずだった。
そこは、僕らのような技術指導のための講師に与えられている共同の控室からよく見える。
普段は高校で2限目まで指導を受け持ち、大学で受け持つ講義のために、すぐに大学内の研究室に
戻ってしまうため、すれ違いになることが多いが、今日は大学構内で著名な作曲家を招いた講演会があり、
僕の講義も休講だ。
山ほど仕事はあったが、僕は少しの間ここに残り、薫が通るのを待っていた。
お互いが忙しくなると、家でも学校でも顔を合わさない日が続く。
ここ最近はすれ違いばかりで、数日前に校内で挨拶を交わしただけだった。
東館から新館に続く渡り廊下の前で、薫は足を止めた。
昨晩から激しい眩暈と吐き気が続き、今日は朝から発作。
ニトロの副作用で頭痛までする。
体調は最悪で、渡り廊下に続く数段の階段さえ足が前に出ない。
立ち止まって深呼吸を繰り返しながら乱れた息を整える。
だが、あまり悠長なこともしていられない。
ここは音楽学校であるために、入試もクラス編成も全てが音楽優先だ。
勉強についていけない生徒が出てこないように、学力に差が付きやすい数学などはHRではなく、
成績順に分けられた少人数の講座制をとっていた。
そのために、薫は校内でも最も離れている東館4Fの隅から新館1FのHRという殺人的な教室移動を
強いられている。
しかも、次の授業はチャイムが鳴った時に着席していないと、遅刻にカウントするほど厳しい
広沢が受け持つ古典。
生徒指導の担当である彼は、なぜか薫を目の敵にしている。
一重のつり目で、いつも睨んでくるので、目障りだ。
…ま、確かに言葉遣いは荒いし、目立つ容姿だし、欠席は多い。目障りはお互い様かもしれない。
薫は気力を振り絞りながら、歩みをゆっくりと進めた。
………おかしいな。
渡り廊下を行く薫を見て、すぐにそう感じた。
いつもなら、はしたないくらいの大股でぐいぐい進んでいくのに、今日は壁際をひどくゆったりとした歩調で
進んでいく。
体調が悪いのだろうか?
気になって、僕はデスクの上に広げていた書類を急いで片付けた。
校内に、カリヨンに模したチャイムが響く。
その余韻の中、薫は教室の入り口で広沢に出くわした。
「まだこんなところにいたのか、響谷。遅刻だな」
嫌味な視線を投げかけると、広沢はそう行って、教室内にさっさと入っていく。
普段なら皮肉のひとつも言ってやるところだが、この体調ではそれも出てきやしない。
号令のなか、薫は何とか自分の席にたどり着き、教科書とノートを開く。
席についても眩暈は全く治まる気配はなく、それどころか、少し歩いただけだというのに動悸が
激しさを増していく。
仕方なく、薫はブレザーのポケットに常備しているピルケースを取り出した。
既に朝に1錠服用しているので、できれば飲みたくないところだ。
今ニトロを服用すれば、昼過ぎには耐えられないほどの頭痛に襲われるだろう。
だが、座っていても治まる気配を見せない動悸に、薫は一錠を口に含んだ。
前では、枕草子を教材に、ダラダラと平安時代の文化の話がされているが、もはやそんなものを
聞いている余裕もない。
「響谷、何をしている!?」
その動作を見咎めた広沢は、厳しい声で起立を求める。
…うっとおしいな………。
そう思いながら、立ち上がったはずだった。
でも。
次の瞬間に視界は暗闇に覆われ、記憶はそこで途切れた。
大学の研究室に戻るのに、薫のHRの前を通るのはかなり遠回りで不自然だ。
だが、誰かと顔をあわせるわけではない。
僕の足は新館の1Fに向いていた。
本館から新館への渡り廊下に差し掛かったとき、バタバタと言う激しい足音とともに、
一人の生徒が走ってきた。
「響谷先生!」
「君、授業中だぞ」
静かに、と続けるつもりだった。
この学校は厳しく、廊下を走ることは禁止されている。
しかも、今は授業中だ。
自分の受け持つ生徒ではないし、ただの技術指導の僕が注意するのも面倒だったが、
今注意して置かなければ、厳格な教師に見つかれば、何を言われるか、わかったものではない。
「違うんです!!響谷さんが…」
僕が注意するよりも早く届いた生徒の言葉に、息を飲み込んだ。
生徒とともに教室に駆け込むと、授業中とは思えないざわめきの中で、
薫が机にもたれかかるようにして倒れていた。
「どうしたっ?」
声を掛けても、その頬に刺激を与えても、意識は戻らない。
いつも彼女がニトロを入れているピルケースが机の上に置かれている…。
やはり調子が悪いのか…?
顔色は悪く、頬にも形のいい唇にも赤みはない。爪も紫色だったが、息遣いは比較的穏やかで、
発作は治まっていると思われた。
何気なく教室内を見渡して、教科担任の広沢と目が合った。
あまり接点のある教師ではないが、彼が僕のことを好いていないことは知っていた。
彼が思う教師像から、僕が飛びぬけて外れているためだろう。
正確には、僕は“教師”ではなく、器楽科の生徒にヴァイオリンを教えるだけの講師なのだから、
彼の堅い教師像を押し付けられるのは迷惑な話だったが。
そして、同じく薫にも反感を持っていることを知っていた。
広沢は僕と目が合った瞬間、少したじろいだ様子で目をそらした。
生徒がこの状態になる前に、気付けることがあったのではないか。
薫に心臓の持病があることは、知れた話だ。
だが、今はそれを責めるときではない。
「広沢先生、彼女を保健室に連れて行きたいのですが、よろしいですね」
僕は広沢を見据え、言う。
「あ、あぁ、はい」
僕は両腕に薫を抱え上げる。
そのとき左の首元が露になり、大きな皮下出血が目に入る。
ブラウスに隠れた肩にかけて、広範囲に広がっている。
嫌な予感がした。
「さっきの生徒は保健委員ですか?一人来てくれると助かるのですが」
広沢は、言われるがままに頷く。
うろたえている彼に苛立ちを覚えながらも、僕は早々に教室を後にした。
……対応が遅すぎる………。
もし、これが心筋梗塞の発作だったら……。
1分1秒を争うのだ。
たった1秒が命取りになる。
そう思えば、怒りさえこみ上げてくる。
「先生、響谷さん、大丈夫ですか?私、前の授業も一緒だったんですけど、歩くのも辛そうで…」
「少し休ませていれば、大丈夫だと思うよ」
生徒の問いかけに、僕は軽い嘘で応えた。
保健室は無人だった。
奥のベッドに薫を横たえると、保健委員だという生徒がメッセージを元に養護教諭に連絡を取ってくれた。
「ありがとう。私はこの後の講義がないから、保健の先生が来るまで付き添っているよ。授業に戻りなさい」
「わかりました」
「広沢先生と、担任の横田先生には、あとで私から連絡をしておく」
一礼して生徒が出て行くのを見届けると、僕は薫のブラウスのボタンを幾つか外した。
少しブラウスをはだけると、左の首筋から胸元、さらには肩にかけて、皮下出血が大きく広がっていた。
ヴァイオリンを弾くときには、相当の圧力が掛かるので、長時間、布を当てずに弾いていると、
ごく稀に内出血が起きることがある。
しかしそれは稀な話で、それこそ何時間もぶっ通しで弾いた場合だ。
「どうされました?」
養護教員の小西さんが、戻ってきたようだ。
僕は素早く薫のブラウスのボタンを戻した。
「すみません、響谷薫が倒れたと、たまたま廊下で生徒にすれ違った時に聞いたものですから、
付き添わせてもらっています」
「結構ですよ、響谷教官。で?妹さんのご様子は?」
「わかりません、発作ではないようなのですが…」
「血圧が異常に下がってるわ………多分、急激な血圧低下で気を失ったんじゃないかしら…。
病院で見てもらったほうがいいわね」
ひととおり、薫の様子を診た小西さんが言った。
「この後の講義は休講なんです。私が連れて行きます…気になることもあるので…」
「気になること?」
「これです」
僕は、薫の首もとを指差す。
「本人からは聞いていませんが、もしかすると心臓の薬の種類が変わったのかもしれない。
もし、副作用からくる出血だと怖いので…」
「そうだとしたら、血圧低下の説明も付くわね。すぐに主治医に掛かったほうがいいわ」
小西さんの表情は厳しかった。
「…に、いさん?」
「気付いたか?」
校内で、薫が僕のことを個人の関係で呼ぶことはない。
まだ多少意識が混濁しているのかもしれない。
「薫、今から病院に行こう」
「大丈夫……。授業に戻る」
すぐにそこが保健室であることに気付いた薫は、上半身を起こしながら言った。
「よしなさい、また倒れるわよ」
慣れているはずの巽の運転でさえ、耐え難いほどだった。
だが、救急車を拒否したのは自分だ。
巽が気を遣って運転していることも、わかっていた。
襲い掛かる激しい眩暈と吐き気を、何とか薫はやり過ごした。
実際、授業に戻るどころの話ではなく、身体を起こすことさえ苦痛だった。
目を開けていることさえ、辛い。
薫は毛布を引き上げ、握り締めながらゆっくりと目を閉じた。