中学生の実態
今日バイトいく途中にコンビニで立ち読みしてたら、ものすごい勢いで一直線に俺がいる立ち読みコーナーに中学1年あたりの身長140センチくらいの小さな男の子がきて、鞄を下にドンと放り投げ雑誌フライデイを手に取って女の裸がないのを確認すると直ぐさま、雑誌FLASHを手に取った。
そして真横に俺がいるにも気にせずその子は堂々とこっそりページをめくることなく大ピラに小向美奈子の裸を見る。小向美奈子の裸を全ページ確認し、次は袋とじを破りはじめる。しかも店員を確認せず、当たり前のごとく何の躊躇もなく袋とじを破る。わたくし未だにきれいに破けたことないのに簡単にきれいにセンターで破る。あれは完全に慣れた手つきだった。
そしてその袋とじの世界は縄で縛られる壇蜜の裸ページ。
その子が袋とじを確認してるときに何じゃこいつと思いながら私はアイスコーナーに移動したが気になってその子を見るや雑誌を閉じて棚に戻す。その時間2分前後。
今時の子は買ってもない商品の袋とじを悪いと思わず当たり前のごとく破る姿は、親とか大人に怒られるってことがないんだろうな?悪いって完全に思ってないぞと感じていたときに、
その子は、コンビニの便所に消えていった・・。
まさか・・・
ん?
いや
あれは完全に
シコりにいったとさ。
そして真横に俺がいるにも気にせずその子は堂々とこっそりページをめくることなく大ピラに小向美奈子の裸を見る。小向美奈子の裸を全ページ確認し、次は袋とじを破りはじめる。しかも店員を確認せず、当たり前のごとく何の躊躇もなく袋とじを破る。わたくし未だにきれいに破けたことないのに簡単にきれいにセンターで破る。あれは完全に慣れた手つきだった。
そしてその袋とじの世界は縄で縛られる壇蜜の裸ページ。
その子が袋とじを確認してるときに何じゃこいつと思いながら私はアイスコーナーに移動したが気になってその子を見るや雑誌を閉じて棚に戻す。その時間2分前後。
今時の子は買ってもない商品の袋とじを悪いと思わず当たり前のごとく破る姿は、親とか大人に怒られるってことがないんだろうな?悪いって完全に思ってないぞと感じていたときに、
その子は、コンビニの便所に消えていった・・。
まさか・・・
ん?
いや
あれは完全に
シコりにいったとさ。
ぐっちの就職活動
最近、ホンマでっかみたなtvやマツコや有吉や、武田先生や池田先生がでててきてバラエティー番組の中本気で話している。バラエティーだからこそ何を言ってもいいスタンスで視聴者側は見るから面白く感じるかもしれないが、先生たちが話す言動は先生たちが書いてる本の内容と同じことであり、あれはジョークじゃなく本当のことを言っていると思う。政府や社会のシステムによって支配されたインチキな刷り込み教育によって日本はおかしなことになって、ますます自分みたいな人間は省かれる社会である笑
けど、ああゆう番組が増えてきたことは良い傾向だとおもう。
ぐっちが就職活動のセミナーにいったらしいが、完全な流れ作業で周りの受講者も司会者もロボットみたいだったと言っていた。そうゆう中のどこかに原石はあるのかもしれないが大半は日本社会のシステムによって、そうしているのが当たり前だと刷り込まれた人たちである。
人間はほんとにすごいもので、嫌な奴が背後に来ると背筋が凍って拒否反応を示したりする。あの感情は鋭く、強烈な違和感を生む。今回のぐっちの、ここはおかしい!!って思ったのもそうだ。
この刷り込み教育に気づけないようになってきている社会が気持ち悪いし、自分には性に合わない。
目が見えない人が10代後半になって、開眼手術をして目が見えるようになったとき、はじめは全て平面としてみえるらしい。奥行きがないから目の前のコップもその奥にある壁も同じ位置に見える。赤ちゃんの動きを見ても何かを取ろうとしたときなかなか一回ではとれず何回も手で握るアクションをしてやっと掴めたときの行動の中には奥行きを覚えるという私たちの生活の部分に気づかぬ訓練をしているのである。
例えば、10人分の長さが違う箸があったとき洗ってもう一度同じ長さに戻そうとするとき、これを科学的に出そうとするとほぼ不可能に近い形になると数学学者が言っていた。しかし、子供でも同じ長さに分けてといえば、10人分の箸をまとめて机に立てる。そうしたら下が揃うから上で高さがわかって分けることができる。
野球の外野フライをキャッチするときに、ボールがどの辺に落ちてくるのかを科学的に出そうとすることはかなり難しい。ピッチャーが投げるボールの力、カーブ角度、バッターの力、角度、バットの接触位置、ボールが飛んだ高さ、四方八方いつ変わるかわからない風向き、いろんなことがボールが落ちる時間の間に科学で立証することはできないと脳科学者が言っていた。しかし、人間ならボールがバットにあたった瞬間多分この辺に落ちるってのを予測できる。時として、科学より人間の能力や勘が上回ることだってよくある。しかし、今の社会のシステムが科学が基準となっている。上に書いたそんなこともできない科学が人間のシステムの基準になっているのはあきらかにおかしい。
ここまで科学を信望している国は海外どこまわっても日本だけだ。
かといって科学を否定しているわけではない。ただ科学はあくまで方法論や考え方の一つであって、それ以上のものではないということを今の日本人にわかってほしい。
科学なんてほとんどがインチキだ。
こうやって研究機関にいながら同じ研究機関にいる友達にも、それはさ・・とか、考え方なんだよねーとか思うやつがいるけど、本質をつきつめていけばその壁は越える。目先にことにとらわれるな。歳の数だけ生きてきた年数分自分を研究してきたんだったら数ヶ月で数値として出す科学を信じるくらいならまず、自分を信じろ。科学にすがって生きるんじゃない。
自分の信念は?と言われれば、『信念を一生作らないことが俺の信念だ。』
そうじゃないと柔軟に臨機応変へ対応できない。変化が目紛しく変わる世の中で、簡単に裏切りも起こる。信念を持つということはカッコイことかもしれない。しかし、逆に言うと信念を持たないと生きていけないってことは、勝手に自分の作った信念という幻想にすがって生きているようなもんだ。確かに信念を持って成功した例はいっぱいあると思う。しかし何かにすがって生きているようじゃ信念を持って成功した自分は超えれない。信念なんか自分の限界を作ってる行為にしかすぎない。何かにすがって生きるなんて今の世の中には不向きだ。
信念なんて幻想にすぎず、あんなんインチキだ。
※後半、岡本太郎風に書いてみた笑
“わかる”ことが増えるということはそれだけ、“わからない”ことが増えるということだ。
けど、ああゆう番組が増えてきたことは良い傾向だとおもう。
ぐっちが就職活動のセミナーにいったらしいが、完全な流れ作業で周りの受講者も司会者もロボットみたいだったと言っていた。そうゆう中のどこかに原石はあるのかもしれないが大半は日本社会のシステムによって、そうしているのが当たり前だと刷り込まれた人たちである。
人間はほんとにすごいもので、嫌な奴が背後に来ると背筋が凍って拒否反応を示したりする。あの感情は鋭く、強烈な違和感を生む。今回のぐっちの、ここはおかしい!!って思ったのもそうだ。
この刷り込み教育に気づけないようになってきている社会が気持ち悪いし、自分には性に合わない。
目が見えない人が10代後半になって、開眼手術をして目が見えるようになったとき、はじめは全て平面としてみえるらしい。奥行きがないから目の前のコップもその奥にある壁も同じ位置に見える。赤ちゃんの動きを見ても何かを取ろうとしたときなかなか一回ではとれず何回も手で握るアクションをしてやっと掴めたときの行動の中には奥行きを覚えるという私たちの生活の部分に気づかぬ訓練をしているのである。
例えば、10人分の長さが違う箸があったとき洗ってもう一度同じ長さに戻そうとするとき、これを科学的に出そうとするとほぼ不可能に近い形になると数学学者が言っていた。しかし、子供でも同じ長さに分けてといえば、10人分の箸をまとめて机に立てる。そうしたら下が揃うから上で高さがわかって分けることができる。
野球の外野フライをキャッチするときに、ボールがどの辺に落ちてくるのかを科学的に出そうとすることはかなり難しい。ピッチャーが投げるボールの力、カーブ角度、バッターの力、角度、バットの接触位置、ボールが飛んだ高さ、四方八方いつ変わるかわからない風向き、いろんなことがボールが落ちる時間の間に科学で立証することはできないと脳科学者が言っていた。しかし、人間ならボールがバットにあたった瞬間多分この辺に落ちるってのを予測できる。時として、科学より人間の能力や勘が上回ることだってよくある。しかし、今の社会のシステムが科学が基準となっている。上に書いたそんなこともできない科学が人間のシステムの基準になっているのはあきらかにおかしい。
ここまで科学を信望している国は海外どこまわっても日本だけだ。
かといって科学を否定しているわけではない。ただ科学はあくまで方法論や考え方の一つであって、それ以上のものではないということを今の日本人にわかってほしい。
科学なんてほとんどがインチキだ。
こうやって研究機関にいながら同じ研究機関にいる友達にも、それはさ・・とか、考え方なんだよねーとか思うやつがいるけど、本質をつきつめていけばその壁は越える。目先にことにとらわれるな。歳の数だけ生きてきた年数分自分を研究してきたんだったら数ヶ月で数値として出す科学を信じるくらいならまず、自分を信じろ。科学にすがって生きるんじゃない。
自分の信念は?と言われれば、『信念を一生作らないことが俺の信念だ。』
そうじゃないと柔軟に臨機応変へ対応できない。変化が目紛しく変わる世の中で、簡単に裏切りも起こる。信念を持つということはカッコイことかもしれない。しかし、逆に言うと信念を持たないと生きていけないってことは、勝手に自分の作った信念という幻想にすがって生きているようなもんだ。確かに信念を持って成功した例はいっぱいあると思う。しかし何かにすがって生きているようじゃ信念を持って成功した自分は超えれない。信念なんか自分の限界を作ってる行為にしかすぎない。何かにすがって生きるなんて今の世の中には不向きだ。
信念なんて幻想にすぎず、あんなんインチキだ。
※後半、岡本太郎風に書いてみた笑
“わかる”ことが増えるということはそれだけ、“わからない”ことが増えるということだ。
皆てんでんこ
大学に騒音機が設置された。
昔から大学の近隣住民からバイクの騒音がうるさいから苦情の嵐なのだ。
しかしそのほぼ全部の苦情は横浜キャンパスではなく東京キャンパスに寄せられている。しかし、横浜キャンパスにも設けられた。部によって横浜キャンパスしかこない学生はなんでここに?何かの実験??と思うぐらい周りに住民は住んでいない。無駄金だというのを前提に大学の見た目だけにこだわる行動だろう。ここに青島俊作巡課部長がいたらきっとこう言うだろう。「騒音は会議室で起きてるんじゃない!!現場で起きてるんだ!!」
ここで上と下の連中のコミュニケートができていないのがわかる。苦情を受け取った下の職員が上の職員へ報告する。上の職員はそれはいかんと言って騒音機設置だ!!と言い放ちそしてこの凡ミスが生まれている。そこでやはり学生とはいえ現場を知る意見は至ってシンプルだ。横浜の学生の反応みると意見やFacebookをみても「これしてなんの意味があるん?」「え?はて?ん?」と言っている。当たり前だ。何もないところにポツンと騒音機が設置されているんだから。必ずしも大学の周り全体で騒音が起きてるんじゃない。調べてみると苦情はどこか一部分に集中するはずなんだよね。そしたら対処方法だって生み出せることくらい誰だってわかる。別に調べなくても今回横浜キャンパスに設置した場所はそこに設置しても意味ないでしょ!と誰もが思う場所である。
昔は物が無い時代近隣との助け合いの中町は動いていた。しかし文明が進めば便利さが生まれると同時に人間の助け合いも少なくなりコミュニケートは次第に退化していった。今や隣に誰が住んでるかわからない時代である。さらに民家は密集したおかげで騒音被害や近隣トラブルはあって当然の時代である。そこで考えたすべが“騒音機設置”だったとしたら・・・情けなくて開いた口の顎が外れるくらいのレベルだ。
こうやって軽い行動や浅はかな発言や表層だけを語って、科学的にと言われれば誰もが何も疑うことなく信じてしまう時代になった。ここから未来の日本どうなるんだろうか。もうここまできたら中途半端に耐えるのではなく一回崩壊してリセットした方がいいのかもしれない。
日本の優れている部分って、復興や挽回するスピードが他の国に比べて異常に速いってことだと思うんだよね。ただ今回の東北の震災は原発があったからあきらかに復興が遅れているけど他の歴史を見ても阪神や新潟の震災だって、台風や土砂崩れでめちゃくちゃになっても復興スピードは異常に速い。戦後はちゃめちゃになった日本は約50年ほどで経済を世界のトップレベルまで持ち上げだんだし。これって今の日本人にDNAとして根付いてる要素だと思う。ただ日本は火山島だし、津波くるし、台風くるし、地震おこるし自然災害が多いのに関わらず対策や反応に対するノウハウや心構えの準備っていうのが弱いと思う。
さらにそこにも浅はかな最近に日本が潜んでいる気がするんだ。
・頑張ろう日本
もう十分日本は頑張ってます!!!!これ以上頑張ったらさらに自殺者や精神病増えますけど!!
・一つになろう日本
一つになったら全員死にますけど!!!!
岩手の“釜石の奇跡”って言われてるけど。今回の津波被害で一番ひどかったところは岩手だった。しかし死者数をみれば岩手より宮城や青森のほうが多かった。そこには岩手の“津波てんでんこ”って言われる教育訓練がなされていたのは間違いない。
『津波がきたら持ち物を取りに家に帰るな!家族にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高い場所へ逃げろ!!自分の命は自分で守れ!!』って意味だ。皆が一つになってたら皆流されてるよ!!!
・愛は地球を救う24時間テレビ
愛で地球を救えるなら国連安全保障理事会【国連】はいりませんけど!!!
こんなの良い言葉を並べてみてもっと広めてと刷り込み教育だ。
スポーツの世界でも侍JAPAN、侍ブルーや、なでしことか言ってるけど
簡単に侍とか撫子って使うなと思うんだよね。
大和撫子からなでしこって使ってるんだったらまず大和撫子の意味を知ってもらいたいんだけど。
辞書でひくと、【大和撫子とは日本人女性への賛辞。美徳とされた清楚を凛とし慎ましやかで、一歩引いて男性を立て、男性に尽くす女性像】と書いてある。
それに比べて、なでしこという愛称は、2004年にJFAの愛称応募により決定した。茶髪で汗をかき、ピアスをして荒々しいぶつかったり蹴ったして大声を叫ぶ。(全然女子サッカーを否定してないよ。友達いるし笑)ただ大和撫子の意味一つとっても何一つ共通点なし。
さらに侍JAPANはWBC優勝してたけど、予選において韓国に負けている。
侍は負けたり、もし勝ってもふがいない勝負をしたときに切腹をしていたはずだ。そんぐらいの覚悟を持っていっていたはずなのに、あんたちその覚悟持てる人誰一人いないでしょ?
『別にええやん笑!!』って友達の、馬場はそう答えるのかもしれない。馬場だけではなくて現代人はそう言うのかもしれない。
2005年8月にアメリカでNCAA(全米大学体育協会)はアメフトや野球、クラブ活動において、インディアンなどを見立てたアメリカの先住民をチーム名やマスコット、ロゴとしての使用を全面禁止すると通達した。応援において「あわわわわわ・・」と言って雄叫びのように言っているがそれは勝手なイメージで本当のインディアンはそんなことは言わない。勝手なイメージからくるステレオタイプであり、民族を軽蔑している。いうことだった。先住民はかつて奴隷として扱われ、目の前の首を切られさらしもの扱いでいろんな迫害を受けた。今も数少ない先住民の居留地へこのように使われてどう思うか?とアンケートを取ったところ蓋をあけてみれば81%の先住民の人たちは『侮辱に感じる』、『本当に私たちを尊敬しているの?それともマスコットと同じ動物扱い?』という結果だった。
現に今の日本には侍はいないが、もし侍やその家族がいたとしたらこの使われ用を見てどう思うのだろうか?和を重んじろとか、敬う心があったのに過去日本の歴史や偉人をもっと敬う心すら忘れている。
昔から大学の近隣住民からバイクの騒音がうるさいから苦情の嵐なのだ。
しかしそのほぼ全部の苦情は横浜キャンパスではなく東京キャンパスに寄せられている。しかし、横浜キャンパスにも設けられた。部によって横浜キャンパスしかこない学生はなんでここに?何かの実験??と思うぐらい周りに住民は住んでいない。無駄金だというのを前提に大学の見た目だけにこだわる行動だろう。ここに青島俊作巡課部長がいたらきっとこう言うだろう。「騒音は会議室で起きてるんじゃない!!現場で起きてるんだ!!」
ここで上と下の連中のコミュニケートができていないのがわかる。苦情を受け取った下の職員が上の職員へ報告する。上の職員はそれはいかんと言って騒音機設置だ!!と言い放ちそしてこの凡ミスが生まれている。そこでやはり学生とはいえ現場を知る意見は至ってシンプルだ。横浜の学生の反応みると意見やFacebookをみても「これしてなんの意味があるん?」「え?はて?ん?」と言っている。当たり前だ。何もないところにポツンと騒音機が設置されているんだから。必ずしも大学の周り全体で騒音が起きてるんじゃない。調べてみると苦情はどこか一部分に集中するはずなんだよね。そしたら対処方法だって生み出せることくらい誰だってわかる。別に調べなくても今回横浜キャンパスに設置した場所はそこに設置しても意味ないでしょ!と誰もが思う場所である。
昔は物が無い時代近隣との助け合いの中町は動いていた。しかし文明が進めば便利さが生まれると同時に人間の助け合いも少なくなりコミュニケートは次第に退化していった。今や隣に誰が住んでるかわからない時代である。さらに民家は密集したおかげで騒音被害や近隣トラブルはあって当然の時代である。そこで考えたすべが“騒音機設置”だったとしたら・・・情けなくて開いた口の顎が外れるくらいのレベルだ。
こうやって軽い行動や浅はかな発言や表層だけを語って、科学的にと言われれば誰もが何も疑うことなく信じてしまう時代になった。ここから未来の日本どうなるんだろうか。もうここまできたら中途半端に耐えるのではなく一回崩壊してリセットした方がいいのかもしれない。
日本の優れている部分って、復興や挽回するスピードが他の国に比べて異常に速いってことだと思うんだよね。ただ今回の東北の震災は原発があったからあきらかに復興が遅れているけど他の歴史を見ても阪神や新潟の震災だって、台風や土砂崩れでめちゃくちゃになっても復興スピードは異常に速い。戦後はちゃめちゃになった日本は約50年ほどで経済を世界のトップレベルまで持ち上げだんだし。これって今の日本人にDNAとして根付いてる要素だと思う。ただ日本は火山島だし、津波くるし、台風くるし、地震おこるし自然災害が多いのに関わらず対策や反応に対するノウハウや心構えの準備っていうのが弱いと思う。
さらにそこにも浅はかな最近に日本が潜んでいる気がするんだ。
・頑張ろう日本
もう十分日本は頑張ってます!!!!これ以上頑張ったらさらに自殺者や精神病増えますけど!!
・一つになろう日本
一つになったら全員死にますけど!!!!
岩手の“釜石の奇跡”って言われてるけど。今回の津波被害で一番ひどかったところは岩手だった。しかし死者数をみれば岩手より宮城や青森のほうが多かった。そこには岩手の“津波てんでんこ”って言われる教育訓練がなされていたのは間違いない。
『津波がきたら持ち物を取りに家に帰るな!家族にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高い場所へ逃げろ!!自分の命は自分で守れ!!』って意味だ。皆が一つになってたら皆流されてるよ!!!
・愛は地球を救う24時間テレビ
愛で地球を救えるなら国連安全保障理事会【国連】はいりませんけど!!!
こんなの良い言葉を並べてみてもっと広めてと刷り込み教育だ。
スポーツの世界でも侍JAPAN、侍ブルーや、なでしことか言ってるけど
簡単に侍とか撫子って使うなと思うんだよね。
大和撫子からなでしこって使ってるんだったらまず大和撫子の意味を知ってもらいたいんだけど。
辞書でひくと、【大和撫子とは日本人女性への賛辞。美徳とされた清楚を凛とし慎ましやかで、一歩引いて男性を立て、男性に尽くす女性像】と書いてある。
それに比べて、なでしこという愛称は、2004年にJFAの愛称応募により決定した。茶髪で汗をかき、ピアスをして荒々しいぶつかったり蹴ったして大声を叫ぶ。(全然女子サッカーを否定してないよ。友達いるし笑)ただ大和撫子の意味一つとっても何一つ共通点なし。
さらに侍JAPANはWBC優勝してたけど、予選において韓国に負けている。
侍は負けたり、もし勝ってもふがいない勝負をしたときに切腹をしていたはずだ。そんぐらいの覚悟を持っていっていたはずなのに、あんたちその覚悟持てる人誰一人いないでしょ?
『別にええやん笑!!』って友達の、馬場はそう答えるのかもしれない。馬場だけではなくて現代人はそう言うのかもしれない。
2005年8月にアメリカでNCAA(全米大学体育協会)はアメフトや野球、クラブ活動において、インディアンなどを見立てたアメリカの先住民をチーム名やマスコット、ロゴとしての使用を全面禁止すると通達した。応援において「あわわわわわ・・」と言って雄叫びのように言っているがそれは勝手なイメージで本当のインディアンはそんなことは言わない。勝手なイメージからくるステレオタイプであり、民族を軽蔑している。いうことだった。先住民はかつて奴隷として扱われ、目の前の首を切られさらしもの扱いでいろんな迫害を受けた。今も数少ない先住民の居留地へこのように使われてどう思うか?とアンケートを取ったところ蓋をあけてみれば81%の先住民の人たちは『侮辱に感じる』、『本当に私たちを尊敬しているの?それともマスコットと同じ動物扱い?』という結果だった。
現に今の日本には侍はいないが、もし侍やその家族がいたとしたらこの使われ用を見てどう思うのだろうか?和を重んじろとか、敬う心があったのに過去日本の歴史や偉人をもっと敬う心すら忘れている。
お金による采配術
1万円と1円どっちが大事と聞かれれば一万円と答えるかもしれない。
だけどそう答えた人は指揮官として欠陥する部分があるんじゃないかと思う。
1万円にとっては1円なんかたいした価値もないし、5円でもあったとしても痛くも痒くもない。しかし、1円にとっては10円も大事だし100円も大事だ。
お金の現場は、支払う時だ。
その支払いにおいて大事なのは総合的に見て必要なポジションで使うことだ。
1円の商品を買うのに1万円を出すと煙たがられるのがオチだし、おつりをくれないかもしれない。つまりこの時は1万円の力は発揮されない、103円だったとき財布の中に1円が3枚あれば一円玉のありがたみが感じる。つまりそーいう時にこそ一円玉の力は発揮できるときだ。必ずしも1万円は万能でない。
団体競技やその個人の能力に満たしたポジィションを見極め配置する。
試合展開の采配が苦手だと思うのなら、いつまでも選手の采配について悩むより、まず財布の采配を考えてみるのもいい。財布の中身を1万円から始めてきっちり0円で締めくくるようにやってみるといい。
ひたすら千円を使いっぱじゃ小銭が余るに決まってる。逆に札単位の金額に小銭を大量に集めても時間がかかるだけだ。つまり、そこには無駄を生んでいる。
良き指導者になるためには指導の時だけに力をいれても時には一時的な結果がでるかもしれないけど長くは続かない。普段から何事に対しても、財布ならお金たちをこう出すと意識して取り組むことが指導現場のヒントになったり直感的に閃くことに結びつく時もあるのだ。
今日からやってみるといい
1万円スタートできっちり0円で財布の中を締めくくる。
自分はまだ2回しか成功したことがない。
かなり難しい笑 なんていったって消費税の計算ができないからなんぼになるかわからない。
ただ単に闇雲に勝つのでは巨人と同じだ。
1万円の選手ばっか集めて優勝しても、そこに感動は生まれない。しかし巨人に入団した選手の中で将来いい有望な選手がいるにもかかわらず芽がでず無駄になっている選手も大勢いるのだ。
1万円の選手も、5千円の選手も、千円の選手も、500円の選手も、100円の選手も、10円の選手も、5円の選手も、1円の選手も活躍してこその感動するのであり、相手からもまた観客にとっても賞賛するチームに値することにつながるはずだ。
勝者とはそうあるべき手本にならないといけない。
だけどそう答えた人は指揮官として欠陥する部分があるんじゃないかと思う。
1万円にとっては1円なんかたいした価値もないし、5円でもあったとしても痛くも痒くもない。しかし、1円にとっては10円も大事だし100円も大事だ。
お金の現場は、支払う時だ。
その支払いにおいて大事なのは総合的に見て必要なポジションで使うことだ。
1円の商品を買うのに1万円を出すと煙たがられるのがオチだし、おつりをくれないかもしれない。つまりこの時は1万円の力は発揮されない、103円だったとき財布の中に1円が3枚あれば一円玉のありがたみが感じる。つまりそーいう時にこそ一円玉の力は発揮できるときだ。必ずしも1万円は万能でない。
団体競技やその個人の能力に満たしたポジィションを見極め配置する。
試合展開の采配が苦手だと思うのなら、いつまでも選手の采配について悩むより、まず財布の采配を考えてみるのもいい。財布の中身を1万円から始めてきっちり0円で締めくくるようにやってみるといい。
ひたすら千円を使いっぱじゃ小銭が余るに決まってる。逆に札単位の金額に小銭を大量に集めても時間がかかるだけだ。つまり、そこには無駄を生んでいる。
良き指導者になるためには指導の時だけに力をいれても時には一時的な結果がでるかもしれないけど長くは続かない。普段から何事に対しても、財布ならお金たちをこう出すと意識して取り組むことが指導現場のヒントになったり直感的に閃くことに結びつく時もあるのだ。
今日からやってみるといい
1万円スタートできっちり0円で財布の中を締めくくる。
自分はまだ2回しか成功したことがない。
かなり難しい笑 なんていったって消費税の計算ができないからなんぼになるかわからない。
ただ単に闇雲に勝つのでは巨人と同じだ。
1万円の選手ばっか集めて優勝しても、そこに感動は生まれない。しかし巨人に入団した選手の中で将来いい有望な選手がいるにもかかわらず芽がでず無駄になっている選手も大勢いるのだ。
1万円の選手も、5千円の選手も、千円の選手も、500円の選手も、100円の選手も、10円の選手も、5円の選手も、1円の選手も活躍してこその感動するのであり、相手からもまた観客にとっても賞賛するチームに値することにつながるはずだ。
勝者とはそうあるべき手本にならないといけない。
100年カレンダー
前、千葉の柏にある別荘バンガロー平川に泊まった時、100年カレンダーを見てしまった。
それを見た時、ある現実に気づいた。
このカレンダーのどこかに自分の命日がある。
病気だったらこの辺かな?事故ならここかもしれない、自殺は・・・ないな笑、殺害にあうとしたら海外にいるときのが高そうだな、そこを切り抜けてどうあがいたって寿命が迎える死からは逃れられない。俺はこのカレンダーのどこかで死ぬのだと。
今年2012年で30年生き、あと50年生きたら2062年80歳。この頃が自分の消費期限である。
この死という現実がむなしい反面、自分の原動力や生き方、やりたいことをやったもん勝ちだと、自殺なんか馬鹿みたいだ!悩むことなんて馬鹿みたいだ!時間を無駄にするな!という力がみなぎってくる。
しかし、日本の現実はそうではない。目先の金や、目先の成功や失敗、目先の安泰や安心に踊ろされて死ぬということを忘れている。
俺は、死ぬのを前提に生きていこうと決意した。
じゃ何だってこいだ!!
死ぬということは悲しいとか寂しいと思うかもしれないが、それ以上にもったいないなーって思う。
何に対してでも言えることだが自分の立場で言うとトレーニングやコーチングとかになるんだけど、流行に乗って、これをやれば勝てるとか強くなれるとか言って何とかメゾッドとかかっこよくいったりしてるけどあれには疑問に感じる。
『誰が何をやるか』で効果や結果は違うし、もっと言うなら、その『誰が』については前例もなく後例もないのだ。つまりコピーしても意味のないもので、サンプルにしても同じ結果がでるわけがない。一卵性であったとしても、生活スタイルや食事、その環境内で影響し合う対人関係といった周りの影響によってすぐに人間は変わってしまう。クローン人間でやっても同じことだ。突き詰めていけば同じはない。
素晴らしく影響を与える人間がいるとしても、そのサンプルは作れないしサンプルにはならない。ボルトのような選手はボルトにしかできないということだ。周りに何かしらの影響を与える人は一生生きて何かしらの影響を与え続けてほしいけどやがて命日がやってこの世から消えたとき、その人の影響力は終わるのだ。今まで年数を年輪みたいに重ねそれを外へ伝えたり出すことによって周りに影響を与えてきた人もそこで終わり。あとは語りつがれるか、もしくは忘れ去られる結果であると思うと、そこまで経験を積み重ねてきたのにもう積み重ねられないだけでなく存在自体が消えてしまうかと思うと、もったいねーーって感じた。
最新や最先端とトレーニングとかコーチングの世界でも聞くけど、これはそう簡単には人間には通用しないんじゃないかって思う。人間のことは人間にしかわからないんだ!いくら精密な機材を投入しても限界がある。機械の場合このジャンルにおいてはこの機材が世界一ですと言われればその通りだと思う。機械はコピー商品であり個人差なんてないのだから。しかし人間は皆違う。それまでの人間をコピーできたとしても、これからの生き方によってそれまでの人間は完全に別人になってしまう。
結局トレーニングって、機械がやってるんじゃなくて人間がやるんだよ。
だから一生かけても、『このトレーニングだけしておけば絶対勝てる。』というトレーニングなんかないわけだよ。
今まで最先端を追ってアメリカや海外を周りその国のトレーニング現場やコーチング現場を見てきたけど、俺らのレスリング部と根本的な部分は何ら違いはなかった。
恩師の藤本先生は毎年同じことばっか言う。
『意識改革』『前へ出ろ』『あてがって引き落とす』
技術面の指導なんか一切なし。科学的なトレーニングに興味を触れず当たり前のトレーニングを徹底的にやらされるだけ笑 数十年練習内容は変わってないけど続々と五輪選手を生み出し続けている。科学が発達したこのご時世科学に頼らず学生に一切有無言わさず徹底的にやらすのだからすごすぎる。
また別の板前修業の話では、1年目皿洗い、2年目皿洗い、さすがに3年目は何か教えてくれるだろうと思ってたが皿洗いで終わる。そこでただの雑用と思わず、何かを教えてくれるだということに気づき、四季によって皿の種類や柄が変わっているのに気づく。もっとあるはずだと4年目皿洗い、5年目皿洗いをしたときに、親方がお前もう一人前だから開業しろと言われる。技術面とか何も教わってないのに親方を信じて開業するとその店は大繁盛したと言うのだ。
最強の指導論は指導しないことにある。
今のご時世、情報が散漫し簡単に手に入る時代である。科学的に付け加えれば庶民は皆何の疑いもなく信じる。こんだけ簡単に情報が手に入り、知識を得ることができる世の中大学の必要性ってあるのか?とも思わせる。池上彰がTVで話せば皆疑うことなく聞くし、簡単にわかりやすく情報を提供してくれる人を求める時代であるとおもう。ある意味簡単に洗脳をかけれる時代に突入したし強制的に指導もしやすいと言ってもいいだろ。
だけどね、やっぱり人に言われてるうちはその人以上に抜け出せないってのを今までの経験値から感じるだ。マニュアル通りにできたとしても、それ以上にはいけない、自発的に考えて選んで決断しないといけないんだ。
マニュアル化が進んだお陰で底辺の底上げにはなったかもしれない、しかし、ずば抜けて飛び抜けた人をつれなくなってるのも事実だと思う。そのへんアメリカはずば抜けた人には金をつぎ込んでバックアップするのはさすがだ。
最強の指導論は指導しないことと言ったのは指導放棄ということではない。
今のご時世だからこそ簡単に知識や情報を与えるのではなく自発的に考えるように仕向けていく必要性があるんじゃないかと思う。
選手のお膳立てはするけども、本人の自覚としてはあたかも自分でやっているように思っている状況を導き出すことが行き着く最強の指導論じゃないかと思う。
11月 エベレスト カラパタール5545m登りまゆゆ!
死んでしまったら先に思い出は作れない。
死ぬ時、俺こうゆうことしたなと続々と思い出せる思い出をつくる人生にしたい。
それを見た時、ある現実に気づいた。
このカレンダーのどこかに自分の命日がある。
病気だったらこの辺かな?事故ならここかもしれない、自殺は・・・ないな笑、殺害にあうとしたら海外にいるときのが高そうだな、そこを切り抜けてどうあがいたって寿命が迎える死からは逃れられない。俺はこのカレンダーのどこかで死ぬのだと。
今年2012年で30年生き、あと50年生きたら2062年80歳。この頃が自分の消費期限である。
この死という現実がむなしい反面、自分の原動力や生き方、やりたいことをやったもん勝ちだと、自殺なんか馬鹿みたいだ!悩むことなんて馬鹿みたいだ!時間を無駄にするな!という力がみなぎってくる。
しかし、日本の現実はそうではない。目先の金や、目先の成功や失敗、目先の安泰や安心に踊ろされて死ぬということを忘れている。
俺は、死ぬのを前提に生きていこうと決意した。
じゃ何だってこいだ!!
死ぬということは悲しいとか寂しいと思うかもしれないが、それ以上にもったいないなーって思う。
何に対してでも言えることだが自分の立場で言うとトレーニングやコーチングとかになるんだけど、流行に乗って、これをやれば勝てるとか強くなれるとか言って何とかメゾッドとかかっこよくいったりしてるけどあれには疑問に感じる。
『誰が何をやるか』で効果や結果は違うし、もっと言うなら、その『誰が』については前例もなく後例もないのだ。つまりコピーしても意味のないもので、サンプルにしても同じ結果がでるわけがない。一卵性であったとしても、生活スタイルや食事、その環境内で影響し合う対人関係といった周りの影響によってすぐに人間は変わってしまう。クローン人間でやっても同じことだ。突き詰めていけば同じはない。
素晴らしく影響を与える人間がいるとしても、そのサンプルは作れないしサンプルにはならない。ボルトのような選手はボルトにしかできないということだ。周りに何かしらの影響を与える人は一生生きて何かしらの影響を与え続けてほしいけどやがて命日がやってこの世から消えたとき、その人の影響力は終わるのだ。今まで年数を年輪みたいに重ねそれを外へ伝えたり出すことによって周りに影響を与えてきた人もそこで終わり。あとは語りつがれるか、もしくは忘れ去られる結果であると思うと、そこまで経験を積み重ねてきたのにもう積み重ねられないだけでなく存在自体が消えてしまうかと思うと、もったいねーーって感じた。
最新や最先端とトレーニングとかコーチングの世界でも聞くけど、これはそう簡単には人間には通用しないんじゃないかって思う。人間のことは人間にしかわからないんだ!いくら精密な機材を投入しても限界がある。機械の場合このジャンルにおいてはこの機材が世界一ですと言われればその通りだと思う。機械はコピー商品であり個人差なんてないのだから。しかし人間は皆違う。それまでの人間をコピーできたとしても、これからの生き方によってそれまでの人間は完全に別人になってしまう。
結局トレーニングって、機械がやってるんじゃなくて人間がやるんだよ。
だから一生かけても、『このトレーニングだけしておけば絶対勝てる。』というトレーニングなんかないわけだよ。
今まで最先端を追ってアメリカや海外を周りその国のトレーニング現場やコーチング現場を見てきたけど、俺らのレスリング部と根本的な部分は何ら違いはなかった。
恩師の藤本先生は毎年同じことばっか言う。
『意識改革』『前へ出ろ』『あてがって引き落とす』
技術面の指導なんか一切なし。科学的なトレーニングに興味を触れず当たり前のトレーニングを徹底的にやらされるだけ笑 数十年練習内容は変わってないけど続々と五輪選手を生み出し続けている。科学が発達したこのご時世科学に頼らず学生に一切有無言わさず徹底的にやらすのだからすごすぎる。
また別の板前修業の話では、1年目皿洗い、2年目皿洗い、さすがに3年目は何か教えてくれるだろうと思ってたが皿洗いで終わる。そこでただの雑用と思わず、何かを教えてくれるだということに気づき、四季によって皿の種類や柄が変わっているのに気づく。もっとあるはずだと4年目皿洗い、5年目皿洗いをしたときに、親方がお前もう一人前だから開業しろと言われる。技術面とか何も教わってないのに親方を信じて開業するとその店は大繁盛したと言うのだ。
最強の指導論は指導しないことにある。
今のご時世、情報が散漫し簡単に手に入る時代である。科学的に付け加えれば庶民は皆何の疑いもなく信じる。こんだけ簡単に情報が手に入り、知識を得ることができる世の中大学の必要性ってあるのか?とも思わせる。池上彰がTVで話せば皆疑うことなく聞くし、簡単にわかりやすく情報を提供してくれる人を求める時代であるとおもう。ある意味簡単に洗脳をかけれる時代に突入したし強制的に指導もしやすいと言ってもいいだろ。
だけどね、やっぱり人に言われてるうちはその人以上に抜け出せないってのを今までの経験値から感じるだ。マニュアル通りにできたとしても、それ以上にはいけない、自発的に考えて選んで決断しないといけないんだ。
マニュアル化が進んだお陰で底辺の底上げにはなったかもしれない、しかし、ずば抜けて飛び抜けた人をつれなくなってるのも事実だと思う。そのへんアメリカはずば抜けた人には金をつぎ込んでバックアップするのはさすがだ。
最強の指導論は指導しないことと言ったのは指導放棄ということではない。
今のご時世だからこそ簡単に知識や情報を与えるのではなく自発的に考えるように仕向けていく必要性があるんじゃないかと思う。
選手のお膳立てはするけども、本人の自覚としてはあたかも自分でやっているように思っている状況を導き出すことが行き着く最強の指導論じゃないかと思う。
11月 エベレスト カラパタール5545m登りまゆゆ!
死んでしまったら先に思い出は作れない。
死ぬ時、俺こうゆうことしたなと続々と思い出せる思い出をつくる人生にしたい。
エレベーター様による講義

今日も坂口が何階へいくかを押して、閉めるを押した。
坂口だけではない。
エレベーター様に乗る様子を見ているとほとんどの人が、
何階へ行くかのボタンを押して、ドアを閉める。
しかし、手順や段階を考えると、閉めるを押してから何階へ行くか押すはずである。
エレベーター様を使う目的は何階かへ行くことである。
その裏と表には、階段を歩きたくない。楽をしたい。という人間の愚かな“欲”というものがまじまじ見える。その気持ちが毒となりエレベーターに乗る冷静さに欠けドアを閉める手順を忘れ、何階へ行く気持ちが先走って人間というものは無様にもボタンを押すのである。
しかしエレベーター様は知っているのだ。愚かな人間の欲を。
だから簡単には動こうとはしないそう甘くないと言っている。
それにメントくらった人間は閉めるのボタンに気づき押すのである。
すみませんでしたと。謝りながら。
そのときに人間は思うんだ。ドアを閉めてから何階へいくかを押した方が効率が良いと。なのにまたエレベーターに乗ると“欲”に負けてボタンを押す。その繰り返しである。
エレベーター様にもいろんな性格があってマンションなどお金持ちが住む場所にいるエレベーター様はスピードも速いし、定員も多く運べる。それに比べてうちの大学のエレベーターときたら、ものすごくだるそうにのろまに動くあげく反応も鈍い。その動きの悪さは体育大学だから階段を使えとも聞こえるのだ。
しかしエレベーター様による講義だと今日気づいた。
人間には3つの欲がある、食欲、睡眠欲、性欲である。
確かにこの3つのどれかの欲による犯罪が多いのも事実だ。
腹が減って食べ逃げ、睡眠が少なすぎて精神障害そして性欲犯罪は定番である。
つまり欲は冷静さを欠如させ、手順や段階、基本となる部分まで狂わせるドラッグのようなものである。
それは全ての世界において共通している。
やはり冷静さにかけたときどこかで欲が邪魔をしているのかもしれない。
お前エレベーターで良かっただろ!お前の生活は欲を持つんじゃないぞ!冷静に判断しろよ!と教えてくれていたのである。
ああ、エレベーター様による胸をかす講義。
身にしみました。
ありがとう。
百兎追う者は、知恵を得る。
昨日のブログは長くなった。
いつもブログは20分もかからないのに、3時間もかかってしまった。
3時間一度も見返すことなくひたすら書き続けたのだ笑
ここ最近、身体に違和感を感じていた。
普段通り読書をしているが、なかなか読み進めないし理解できない。読むことに対して窮屈感を感じていた。そしたらいきなり手がブログを書き始めたのだ。
ゲロを吐くように、全てを吐き出すように。手がどんどん頭の中の知恵、知識、価値観や感情をブログに吐き出すのだ。そして気づく あたまのキャパがいっぱいだったってことに。やっぱり インプットしたらそれを整理する。ある程度でいいから整理できたら、それをアウトプットしていかないと容量がいっぱいになっていたんだ。
ブログに書き出すことによって頭はスッキリする感覚になっていくのがわかる。
これだ!!と思って書き終えてから本をひらくとどんどん読み進めることができるだはないか!
このブログを読んでくれている人もいるかもしれないけど正直ブログは他人への発信目的で書いてはいない。自分への整理として書いている。文章にするということは、手順、シンプルさ、伝え方、強弱、ポイントを正すことができる。言葉として発すれば気体となって消えていくが文章として出すならば文字として残る。人に伝わりやすくするにはどうするか考え、なおかつ自分への整理になる。言葉は一瞬で終わるが文章はさらに考える。やっぱり書かないといけないのである。アウトプットの方法として一つにブログが自分には適しているなと昨日改めて感じた。
自分のもってる能力や知恵を人のために使ったり外に出すことと、また逆に何か自分の為に得るとして物事を考えた時、よくよく考えてみれば、何かを得る以上に、他人の為に自分の能力を使っている人のほうが人望は厚く、逆に何かを得るばかりしている人は人望は薄いように感じる。
自分は常に考えながら生きている。
だけどわからない。だから行動するんだ。
行動した結果が自分の中で物事の論理を形成する。
今回も当たり前のことなのにキャパがいっぱいだったてことには気づかなかった。だけど違和感は感じていた。それだけで十分なのかもしれない。
何に対し違和感を感じるのかわからなくていい。違和感さえあれば行動できる。
自分は感性を大事にする人間である。
だから直感にも従うし、違和感を大事にしている。
椅子に座って考えるよりとりあえず何か行動する。
そしたら自ずと、答えがわかるのである。
まず大事なことは答えを知ることでもないし、結果を出すことでもない。
自分の直感を信じて従う勇気があるかどうかである。
来年の2月アフリカキリマンジャロへ登頂しにいく。
頂上にいる自分が5年前から浮かんでいた。
だから、頂上には登れているのは当たり前である。
問題はアフリカへ行きチケットをとってキリマンジャロへ登る行動をとるかである。
脳科学の分野で直感は今まで生きてきた人生において、お前ならここまでできるというのを瞬間的ヒントとして出していると言われている。
しかし日本では直感で従って行動する人は少ない。
自分が飛躍するヒントを教えてくれているのに従わないなんてもったいない!
他人の助言より信用できる自分の助言であるはずなのに。
その直感に従って行動していれば、なおさら直感力はあがる。
人には考えて手順をくんでから行動してから成功する人もいるが、自分の場合は絶対、感性で動いた結果を結果として出していく人間である。
だから人に自分の考えや経験を伝えてきた。
自分は考えた結果より体感した結果を人へ伝えてきた。
いわば、あったことをそのまま言える説得力がある。
だけどね、スカされる人と、自分に励みに飛躍してくれる人のどっちかに別れるんだ。
なぜそうなるのか最近わかったんだけど、
考えない人に、考えた結果や体感した結果を一生懸命伝えても結局伝わらないってことだ。話し手の方からしたら、何の為に経験したことを労力使って話したことが無駄になってるし、聞き手として知った気になっているだけど結局何ら変わっていない。お互いにとってマイナスしか生まれない。
指導現場においても、日本はマニュアル化され、指導者はもってる知識を伝えようとする。そんな姿を見ていると現代人は本当に知識だけは豊富にいっぱい持ってる知識人であるけども知恵は本当に働かないなーどしようもねーなこいつら。と思っていた。知識が増えても知恵が働かなかったら現場では通用しない。物事は一つから成り立つほど簡単にはできていない。いろんな複雑な絡みがあって物事一つは成り立つのである。
だからいつどのタイミングでどのうような変化が起きるかわからない。知識だけでは変化に対応することなんかできない。しかし知識はなくとも知恵さえあえれば変化に対応することができる。変化に対応したときにいろんな要素が複雑にリンクするその適応力こそ知恵なのだと気づいた。大学院までいったおかげで知識人ばっか見てきた。一つの領域を極めることは素晴らしい。だけど頭が固さ柔軟性が乏しい。そんな同類の人たちがミーティングしている姿を見るだけで吐き気がするほど強烈な気持ち悪さの違和感を感じた。
やはり同類の団体では何も楽しくないし何も向上していない。
多ジャンルとんだいろんな人が集まる団体の方がよっぽど知識や知恵を助け合って活用することができる。
一つのことに没頭して何かしら良い結果がでると素晴らしいと世間から賞賛されるが、失敗すれば世間から、あいつは愚かだったと叩かれる それが今の日本である。
スポーツなどの新聞記事をみていてもそうだ。
二兎追う者は、一兎も得ず。ってことわざがあるけど、
言い方を変えれば、二つの目標を持てば、一つの目標も叶わないてことだ。
そんなはずはない!!!
100兎も追えば何かしらリンクする。
よって、百兎追う者は、知恵を得る。ってことに命名してあげよう。
物事は一つの領域で成り立たないし、過去の成功している人を見ても多ジャンルにおいての知識や雑学を手にしている。そしてそれをうまくリンクして知恵をつくり一つの物事をとらえている。一つの領域だけで物事を考えるとする行為はその一つの道が途絶えた時、何もできないということである。しかし、いろんなことを知っていると逃げ道や違う方法を考えだすことができる。
川の水は石にぶつかっても止まらずに方向を変えて流れるのである。
こやつ知恵をもっているな!!

川で水の流れをずっと見ていた。
ただ大きな目標を前に掲げると それに没頭してしまう。
それこそ一つの目標しか見えなくなる。危険だ。
だから手を伸ばせば届く範囲の小さな目標を散らばらしておくイメージをもったほうがいい。いっぱい目標は持っていたほうがいいのである。
塵も積もれば山となるだ。
塵も拾わないと山にはなれない。
でかい目標を掲げているだけでは山の山頂を見ているにすぎない。
だから小さな目標が必要なのである。
今日夜中からロンドン五輪

大学からは我がのりかつくん筆頭に23名選手がでます!!
いつもブログは20分もかからないのに、3時間もかかってしまった。
3時間一度も見返すことなくひたすら書き続けたのだ笑
ここ最近、身体に違和感を感じていた。
普段通り読書をしているが、なかなか読み進めないし理解できない。読むことに対して窮屈感を感じていた。そしたらいきなり手がブログを書き始めたのだ。
ゲロを吐くように、全てを吐き出すように。手がどんどん頭の中の知恵、知識、価値観や感情をブログに吐き出すのだ。そして気づく あたまのキャパがいっぱいだったってことに。やっぱり インプットしたらそれを整理する。ある程度でいいから整理できたら、それをアウトプットしていかないと容量がいっぱいになっていたんだ。
ブログに書き出すことによって頭はスッキリする感覚になっていくのがわかる。
これだ!!と思って書き終えてから本をひらくとどんどん読み進めることができるだはないか!
このブログを読んでくれている人もいるかもしれないけど正直ブログは他人への発信目的で書いてはいない。自分への整理として書いている。文章にするということは、手順、シンプルさ、伝え方、強弱、ポイントを正すことができる。言葉として発すれば気体となって消えていくが文章として出すならば文字として残る。人に伝わりやすくするにはどうするか考え、なおかつ自分への整理になる。言葉は一瞬で終わるが文章はさらに考える。やっぱり書かないといけないのである。アウトプットの方法として一つにブログが自分には適しているなと昨日改めて感じた。
自分のもってる能力や知恵を人のために使ったり外に出すことと、また逆に何か自分の為に得るとして物事を考えた時、よくよく考えてみれば、何かを得る以上に、他人の為に自分の能力を使っている人のほうが人望は厚く、逆に何かを得るばかりしている人は人望は薄いように感じる。
自分は常に考えながら生きている。
だけどわからない。だから行動するんだ。
行動した結果が自分の中で物事の論理を形成する。
今回も当たり前のことなのにキャパがいっぱいだったてことには気づかなかった。だけど違和感は感じていた。それだけで十分なのかもしれない。
何に対し違和感を感じるのかわからなくていい。違和感さえあれば行動できる。
自分は感性を大事にする人間である。
だから直感にも従うし、違和感を大事にしている。
椅子に座って考えるよりとりあえず何か行動する。
そしたら自ずと、答えがわかるのである。
まず大事なことは答えを知ることでもないし、結果を出すことでもない。
自分の直感を信じて従う勇気があるかどうかである。
来年の2月アフリカキリマンジャロへ登頂しにいく。
頂上にいる自分が5年前から浮かんでいた。
だから、頂上には登れているのは当たり前である。
問題はアフリカへ行きチケットをとってキリマンジャロへ登る行動をとるかである。
脳科学の分野で直感は今まで生きてきた人生において、お前ならここまでできるというのを瞬間的ヒントとして出していると言われている。
しかし日本では直感で従って行動する人は少ない。
自分が飛躍するヒントを教えてくれているのに従わないなんてもったいない!
他人の助言より信用できる自分の助言であるはずなのに。
その直感に従って行動していれば、なおさら直感力はあがる。
人には考えて手順をくんでから行動してから成功する人もいるが、自分の場合は絶対、感性で動いた結果を結果として出していく人間である。
だから人に自分の考えや経験を伝えてきた。
自分は考えた結果より体感した結果を人へ伝えてきた。
いわば、あったことをそのまま言える説得力がある。
だけどね、スカされる人と、自分に励みに飛躍してくれる人のどっちかに別れるんだ。
なぜそうなるのか最近わかったんだけど、
考えない人に、考えた結果や体感した結果を一生懸命伝えても結局伝わらないってことだ。話し手の方からしたら、何の為に経験したことを労力使って話したことが無駄になってるし、聞き手として知った気になっているだけど結局何ら変わっていない。お互いにとってマイナスしか生まれない。
指導現場においても、日本はマニュアル化され、指導者はもってる知識を伝えようとする。そんな姿を見ていると現代人は本当に知識だけは豊富にいっぱい持ってる知識人であるけども知恵は本当に働かないなーどしようもねーなこいつら。と思っていた。知識が増えても知恵が働かなかったら現場では通用しない。物事は一つから成り立つほど簡単にはできていない。いろんな複雑な絡みがあって物事一つは成り立つのである。
だからいつどのタイミングでどのうような変化が起きるかわからない。知識だけでは変化に対応することなんかできない。しかし知識はなくとも知恵さえあえれば変化に対応することができる。変化に対応したときにいろんな要素が複雑にリンクするその適応力こそ知恵なのだと気づいた。大学院までいったおかげで知識人ばっか見てきた。一つの領域を極めることは素晴らしい。だけど頭が固さ柔軟性が乏しい。そんな同類の人たちがミーティングしている姿を見るだけで吐き気がするほど強烈な気持ち悪さの違和感を感じた。
やはり同類の団体では何も楽しくないし何も向上していない。
多ジャンルとんだいろんな人が集まる団体の方がよっぽど知識や知恵を助け合って活用することができる。
一つのことに没頭して何かしら良い結果がでると素晴らしいと世間から賞賛されるが、失敗すれば世間から、あいつは愚かだったと叩かれる それが今の日本である。
スポーツなどの新聞記事をみていてもそうだ。
二兎追う者は、一兎も得ず。ってことわざがあるけど、
言い方を変えれば、二つの目標を持てば、一つの目標も叶わないてことだ。
そんなはずはない!!!
100兎も追えば何かしらリンクする。
よって、百兎追う者は、知恵を得る。ってことに命名してあげよう。
物事は一つの領域で成り立たないし、過去の成功している人を見ても多ジャンルにおいての知識や雑学を手にしている。そしてそれをうまくリンクして知恵をつくり一つの物事をとらえている。一つの領域だけで物事を考えるとする行為はその一つの道が途絶えた時、何もできないということである。しかし、いろんなことを知っていると逃げ道や違う方法を考えだすことができる。
川の水は石にぶつかっても止まらずに方向を変えて流れるのである。
こやつ知恵をもっているな!!

川で水の流れをずっと見ていた。
ただ大きな目標を前に掲げると それに没頭してしまう。
それこそ一つの目標しか見えなくなる。危険だ。
だから手を伸ばせば届く範囲の小さな目標を散らばらしておくイメージをもったほうがいい。いっぱい目標は持っていたほうがいいのである。
塵も積もれば山となるだ。
塵も拾わないと山にはなれない。
でかい目標を掲げているだけでは山の山頂を見ているにすぎない。
だから小さな目標が必要なのである。
今日夜中からロンドン五輪

大学からは我がのりかつくん筆頭に23名選手がでます!!







