どうも、僕です。
これは読んで。
今よくわかんなくても、
いつか、
「ああ、あの事だったのか。」
って、気づくと思うから。
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”在る”の否定
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全ての悩みは、
”在る”の否定から始まる。
いろんな”在る”の否定。
そしてその根底に、
私という”存在”の否定。
が、あるのだ。
人に認められたい
人の目が気になる
人になんか言われるのが恥ずかしい
仕事がやめられない
好きでもない彼と別れられない
私に合う仕事なんてない
いつも私は怒られる
いつも私はうまくできない
私は頑張らないと生きていけない
「悩み」というのは、根っこにある
”私という存在の否定”
から生えた木々の枝葉。
”存在の否定”という根っこから、
すくすく育った「悩み」の枝葉を
いくら切り取っても、
また次の枝葉が生えてくるだけ。
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『依存』について
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私が私の”存在”を、
否定しているとどうなるか。
「私は存在してはいけない。」が、前提である。
↓
私が存在するためには存在許可が必要である。
↓
存在許可を得るための行動。
・我慢する
・子供を演じる
・自分の本音を言わない
・服従する、従順でいる
などなど。
↓
一瞬、存在許可を得られた感覚になる。
↓
でも、私の前提は、
「私は存在してはいけない」だから、
存在許可の有効期間はすぐ切れる。
↓
次に存在許可を出してくれる人、物を探す。
これを、『依存』という。
『依存』とは、
私の”存在”そのものを、
何かや誰かに依る(よる)こと。
何かや誰かに『依存』するのは、
私が私の”存在”を、否定しているから。
それだけ。
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私に必要なもの
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必要な『依存』というのはあるのだろうか。
答えは、”無い”だ。
必要な『依存』というのは無い。
それが必要と思っていることが、『依存』なのであって、
必要な『依存』というのは、無い。
「それでも私は私の存在を否定してしまいたくなります。」
うん。それは、わかる。
必要と思っていることが、『依存』なのであって、
でもそれは、これに気づくのに、時間が必要ってだけの話だ。
過去の体験、
過去歩んできた時間が、
私の”存在”は、否定されてしかるべきという
《前提》を作ったのなら。
その《前提》はもう必要ないと”気づく”ために、
時間は必要かもしれないから。
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『受容』について
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私の”存在”とは、
ただ”在る”のであって、
何かや誰かに許可されたり、
何かをクリアしたら承認されたり、
そういう、条件付きの類のものじゃない。
ただ、”在る”のだ。
ただ、”在る”を、
ただ、”在る”がままに、受け入れることを、
『受容』という。
『受容』とは、
この世で一番の優しさである。
この世で一番の優しさに近いものを、
『愛』と呼ぶのかもしれない。
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『否定』や『肯定』
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『否定』や『肯定』は、
ときに”存在”そのものを薄くする。
『否定』や『肯定』をするとき、
大概、”その物事そのもの”を受け入れるよりもまず、
・それが良いか悪いか、
・それが合ってるか間違ってるのか、
・それが正解か不正解か、
そういう二元論の話をしているからだ。
それが、その物事、
その”存在”そのものを、薄くしていく。
それが私に関する物事なら、
それはつまり、
私の”存在”そのもの、を薄くしていく、
薄れさせていく、
忘れさせていく。
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忘れたら思い出す
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忘れたら、また思い出せばいいのだ。
私という存在は、ただ”在る”のだ、と。
あの人という存在も、ただ”在る”のだ、と。
目の前の物事も、ただ”在る”のだ、と。
それを『否定』したり『肯定』したりする生活の中で、
その存在そのものが、
ちょっとだけ薄れただけだ、と。
それでも私は、ただ”在る”のだ、と。
私の”悩み”の話は、
それを思い出してからでも遅くない。
【重要記事】自己肯定感・自己受容感について
むねを