『源氏物語』に書かれていることを手掛かりに光源氏さんのお宅の場所を考えてみた。

 

光源氏の閑居のモデルの在原行平関連の事項。

おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。

須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、

という部分から、①「山中」である。海から少し離れているが②海岸に打ち寄せる波の音が聞こえることがわかる。

 

光源氏さんのお宅からの景色。

前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、

沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも、心細げなるに、雁の連ねて鳴く声、楫の音にまがへるを、

浦づたひに逍遥しつつ来るに、他よりもおもしろきわたりなれば、心とまるに、「大将かくておはす」と聞けば、あいなう、好いたる若き娘たちは、舟の内さへ恥づかしう、心懸想せらる。まして、五節の君は、綱手引き過ぐるも口惜しきに、琴の声、風につきて遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ、取り集め、心ある限りみな泣きにけり。

などという部分から、③廊下に出れば海が見え、④家の前を通る舟から舟唄や漕ぐ音が聞こえる。⑤船には光源氏の奏でる琴の音が風に乗って聞こえることがわかる。また、

煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。

という部分から、後ろの山で柴を燃やす煙を藻塩を焼く煙と間違えるくらい⑥海岸と山が近いことがわかる。

 

光源氏さんのお宅のご近所の様子。

かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」など聞きたまへど、「人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを

「昔こそ人の住みかなどもありけれ」ということから、現在はご近所に住んでいる人は少ないと思われる。ここでいう昔は、在原行平が須磨にいた時期を指すと思われる。

 

なぜ、人がいなくなったかを考えてみると、まず、地震と津波が考えられる。

 

日本地震学会のサイトに

仁和3年7月30日(887年8月26日)の南海トラフ地震(M8.0~8.5) (中略)「五畿七道諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ,海潮陸に漲(みなぎ)りて溺死者勝(あ)げて計るべからず.そのうち摂津国尤(もっと)も甚(はなはだ)しかりき」

とあることから、「昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」という状況になったと思われる。

 

ほかの自然災害や疫病なども考えられなくもないが、防波堤もない時代に津波で「海潮陸に漲(みなぎ)り」という状況では、たとえ、潮を被った土地の塩害の自然回復に必要な期間が2~3年と思ったより短かったとしても https://www.jstage.jst.go.jp/article/kaigan/71/2/71_I_1663/_pdf、河川(神戸の市街地の河川は六甲山から一気に流れ落ちるため急流が多く短時間の降雨で水害が発生しやすいらしい)に橋もなく湿地が広がる状況であったなら、しばらく定住しようと思う人が現れないことは容易に想像できるだろう。


津波を逃れて源氏物語のころに須磨に住んでいた人々は、ある程度の高台に住んでいたと思われる。

 

『源氏物語』「須磨」にも、陰陽師を呼んで、祓いをさせたところ、突然嵐が起こり、高潮が発生したとある。

「今しばし、かくあらば、波に引かれて入りぬべかりけり」「高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず」と言ひあへり。

この12帖「須磨」の嵐は、13帖「明石」でも語られており、

風いみじう吹き、潮高う満ちて、波の音荒きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。

月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらはに、名残なほ寄せ返る波荒きを、柴の戸押し開けて、眺めおはします。

「この風、今しばし止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。神の助けおろかならざりけり」
と言ふを聞きたまふ

と、光源氏さんたちは危うく高潮にさらわれるところであったらしい。

 

波にさらわれるほどの高潮があったが、大急ぎで家へ帰って難を逃れたと書いてあることから、光源氏さんのお宅は、⑦高潮が及ばない高さにあることになる。

光源氏さんのお宅は、津波、あるいは高潮時における津波による浸水高さ(10メートル)より高い場所にあったと思われる。

 

光源氏さんのお宅の場所を特定する条件をまとめると、

①「山中」である

②海岸に打ち寄せる波の音が聞こえる

③廊下に出れば海が見える
④家の前を通る舟から舟唄や漕ぐ音が聞こえる

⑤船には光源氏の奏でる琴の音が風に乗って聞こえる

⑥海岸と山が近い

⑦高潮が及ばない高さにある

ということになるだろう。

 

国文学者の高橋和夫先生も「源氏物語―須磨の巻について」

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://gunma-u.repo.nii.ac.jp/record/3895/files/areh032001.pdf&ved=2ahUKEwiOgNz_rsGGAxWFnK8BHbldJX4QFnoECCQQAQ&usg=AOvVaw1xqIy9WrSzJhL0c1fdWvAm で、

その本居の寝殿の位置は、海岸からやや奥まった所で、山中とあるから、海とは山を隔てていたのである。海は少 し遠いとあるが波は夜は聞えて来る。 しかし漁民の言によると、高潮になれば、この建物 すべてが流 されただろうと言 っているから、標高はそれ程なく、せいぜい十メートルであろう。しかし奥まで波が侵入するのは、海からその家宅まで、両側から山が迫っていて谷間になっている所である。須磨だからといって、光源氏は四六時中海が見える海浜の高台に居たのではない。

と、おっしゃっているので、大きく間違っていることはないだろう。

 

光源氏さんのお宅の場所について直接言及しているわけではないが、『源氏物語』には

かの山里の御住みかの具は、えさらずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども『文集』など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。

と書いてあり、ここでいう『文集』というのは白楽天(白居易)の『白氏文集』のことだそうで、光源氏さんはその書物をわざわざ須磨へ持ってきていたそうである。

住まひたまへるさま、言はむかたなく唐めいたり。所のさま、絵に描きたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の階、松の柱、おろそかなるものから、めづらかにをかし。

と、光源氏さんのお宅は「唐めいた」唐風の作りだったそうだ。また、紫式部は、光源氏に

「唐国に名を残しける人よりも行方知られぬ家居をやせむ」渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、「うらやましくも」と、うち誦じたまへる

と、古歌を口ずさませている。どうやら光源氏さんは唐かぶれだったようだ。

 

隠遁生活をするにあたって『文集』を持って来て、唐風の家に住むというのは、今でいえば、アウトドアオタクがアウトドア関連の雑誌に影響されてログハウスを建てたり庭にテントを張ったっりウッドデッキの焚火台でむやみに焚火をするのに似ているだろうか?光源氏さんは藻塩の煙と山賤(やまがつ)の焚火の煙を間違えていたが・・・

 

どうやら、光源氏さんは白楽天の書物を読ん唐風の閑居を建ててしまうという、唐風オタクだったようである。光源氏さんのお宅の場所を特定には、白楽天がキーワードのようである。

 

国文学者の高橋和夫先生は「源氏物語―須磨の巻について」

で、紫式部は白楽天の漢詩「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」を『源氏物語』の作中で現実化していると指摘していらっしゃる。

 

このことは、光源氏さんのお宅の場所を特定する大きなヒントになる。

 

ちなみに、「白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説」https://manapedia.jp/text/1932 によると、

「香炉峰のふもと、新しく山の中に住居を構えるのにどこがよいか占い、草庵が完成したので、思いつくままに東の壁に題した」という訳になるそうだ。

 

白楽天の閑居が光源氏の閑居のモデルの一つということになるだろう。

 

高炉峰というのは山の形が中国の仏教や道教の寺廟の入り口に置かれる「大香炉」の下部の形に似ている山をいうそうで、白楽天が麓で閑居したという香炉峰は廬山にあって4つある香呂峰のひとつなのだそうだ。八仙(道教の代表的な仙人八人)のひとりの呂洞賓が修行の末に仙人になったとされる仙人洞とか、中国浄土教の開創地といいわれている384年創建の東林寺があるそうだ。廬山は中国の山水詩および山水画の発祥地ともいわれているという。


のちの時代の水墨画を見ると、崖に挟まれた河川(滝含む)が描かれていることから、香炉峰の麓の代表的なイメージの特徴は崖に挟まれた河川といえるだろう。

 

須磨で波の音が聞こえて舟の見える場所、つまり海岸の近くで山の麓に河川がある場所といえば、一の谷しかない。

 

ほかにも、源氏寺のそばを流れていた(今は暗渠?)という千守川もあるにはあるが、山の麓というより山の縁を流れている感じで、廬山のイメージとはかけ離れている。

 

また、一の谷には兜の鉢を伏せた形から名付けられたという鉢伏山があり、八仙の一人李鉄拐の名を冠した鉄拐山がある。

 

日本では、火鉢を香炉として使ったという説がある(正倉院には最古の現存の火鉢とされる「大理石製三脚付火舎」が収蔵されており、一説では香炉を兼ねたものらしい)そうで、形状はともかく香炉を鉢と呼ぶ用例が過去にあった可能性がありそうだ。現在でも鉄製の香炉の下の部分を鉢(鉄鉢香炉)と呼んだりするようである。

 

つまり、鉢伏山は香炉山(廬山)ともいえなくないのである。

 

鉢伏山と鉄拐山の麓近くで、崖に挟まれた河川は一の谷にある、一の谷川(赤旗谷川含む)と二の谷川しかない。
 

光源氏さんのお宅も一の谷にあったといって良いだろう。

 

一の谷プラザから緑の塔の間の公園の便所のあるあたりだろうか。

 

一の谷プラザから緑の塔の間の公園の便所のあるあたりは、源氏物語や琴、正岡子規などの研究施設があってもおかしくない場所といって良いだろう、たぶん。

 

『源氏物語』の原文は「A Cup of Coffee」というサイトの

によった。


※一の谷の名称の由来は播磨摂津の境の一番の谷といわれていたことからそう呼ばれたらしいが、何がどう一番なのかは定かではないらしい。そこで、鵯越兵庫説に倣って、「一の谷」「一位の谷」説を唱えたいと思う。光源氏は正一位または従一位に相当する太政大臣 https://tbqr.sanseido-publ.co.jp/05-seisenkoten/contents/40_2.pdf になったので、その光源氏が住んでいた場所とされる土地を「一位の谷」と呼んだ。「一位の谷」(いちいのたに)の発音を繰り返すうちに「ち」の後の「い」(「位」)が欠落して「一の谷」(いちのたに)と呼ばれるようになった。ありそうな話である。歴史的事件をもとにした『平家物語』と違って、『源氏物語』は完全なフィクションなので害はないだろう。

 

 

知人によると、一の谷では庭でキャンプファイヤー(数メートルの炎が上がり、冬場に200mほど離れた角を曲がった時にきな臭い熱風を感じるほどらしい。)を頻繁にしているお宅があるそうで、そのお宅の駐車場にエアコン室外機が満載された軽トラや建築廃材を積んだトラックが数日駐車されていたりして、キャンプファイヤーのあと建築廃材が消えていたりしたそうだ。

という記事には、

中間処理業者の事業場が閉まったなどの理由で、産業廃棄物を積んだ車両を駐車場に翌朝まで停めることことは違法ではありません。

ただし、荷台上で廃棄物を仕分けしたり、駐車場に廃棄物を下ろすことは積替え保管の許可がないとできません。
廃棄物には一切触らずに、ほろ掛け等の荷台から飛散流出させないための対策も必要です。

また、中間処理場へ運搬することが可能な時間帯であるにもかかわらず、恒常的に駐車場に廃棄物を満載した車両を停め続けると、運搬基準違反となりますので、駐車は必要最小限度の期間内に止めるべきです。

などとある。

 

不審に思って、ご近所に聞いてみたら、リサイクル関係の会社を兼ねた住宅だったそうだ。

 

ま、産廃の積み替え保管や最終処分の許可を神戸市が出しているのだろうから、問題ないのだろう。

 

もしそうだとすれば、私の知人のイチャモンということになるのだろうか?

 

しかし、第一種低層住居専用地域で産廃許可収集運搬業(積替え保管含む)や廃棄物処理施設(建築廃材の焼却?)の許可を下ろすとは、神戸市は規制緩和の最先端を行っているようだ。

 

という産廃業の経営者のブログ記事には、

廃棄物の許可を取得するためには工場の立地が問題となります。最初に問題となるのは用途地域です。用途地域というのは都市計画法によって定められており、それぞれの土地が目的に応じて区分され、その土地に建てられている建物の種類や用途などを示すものです。よく、住宅広告にある「第1種住居専用地域」と書いてあるのがそれです。もちろん、産業廃棄物処理を住宅地で行なう事はできませんので、住居専用地域では産業廃棄物処理の許可申請を行なう事ができません。基本的には「工場地域」「工業専用地域」などで事業を営むこととなります。

とあり、「産業廃棄物処理を住宅地で行なう事はできません」というのが業界の共通認識のようだ。

 

もし、許可がおりていたら、地域住民にとっては迷惑な話かもしれないが、神戸市は規制緩和の最先端といえるだろう。神戸市全域でなく、一の谷だけなら、一の谷は産廃業特区といっても良いだろう。

 

神戸市の先進性は群を抜いている。

 

という記事には、

保管施設の場所的要件

保管施設は、用途地域の準工業地域、工業地域、工業専用地域にあることが求められます。

そのため、第一種低層地域から商業地域までの用途地域での許可取得は不可となります。

また、「風営法の距離制限」と同じような距離制限が設けられており、学校や病院の100メートル以内にある保管施設でも許可は不可とまります。

と書いてあり、一般的には「第一種低層地域」では産廃許可収集運搬業(積替え保管含む)や廃棄物処理施設などの許可はおりないようだ。

 

神戸市が許可しているのだろうから、飛び火火災などを防止する設備や消火設備(スプリンクラーなど?)がちゃんと設置されていて安全なのだろう。安全を確保した焼却施設なら、たとえ、キャンプファイヤーに見えたとしても、法律上はなんの問題もない。

 

もし、焚き火の火の粉による飛び火火災が起こったとしても、因果関係を証明できないだろうから、法律上は、なんの問題もない。

 

大手を振って、お庭でキャンプファイヤー(数メートルの炎が上がる程度の焚き火)やってください。

 

ただ、須磨浦は埋め立てで景観台無しで、内裏跡付近は産廃業特区化してるんじゃ、観光に行く気しないな。

 

一の谷の歴史について調べて見たけど、観光についていえば、実際に行くと、ガッカリするような場所になってしまっているようだ。このブログは一の谷への観光を推奨するものではありません。

 

 

などの意見もありますので、神戸観光をお考えの方はよく調べてから行かれることをおすすめします。

 

どこの観光地も同じだと思いますが、歴史的な街並みはコンビニ(コンビニ撤退後家族葬になっている場合あり)、駐車場、マンションなどで歯抜け状態、温泉地や里山・田園風景などは生コン工場、建材置き場、廃棄物置き場、廃車置き場、埋立、造成、空き地などを見に行くようなもので、数年前まで情緒があった場所の情緒が木っ端微塵ということはよくあることです。

 

 

看板掲げずに(無許可で?)やったら、犯罪的な行為になるのかな?

 

という記事をみると、わざわざ、第一種住居専用地域でしなくてもいいことをしたがる人がいるようだ。

 

一般的には、色々知恵を絞って「産廃業者じゃなくてリサイクル関係」「焼却処分じゃなくてバーベキュー」「屋根がないから作業場じゃなくて庭」「店舗用の倉庫じゃなくて居住用の倉庫」いろんな言い方を考えて、第一種住居専用地域で合法的に生活するのは良いことなのだろう、たぶん。

 

そういう感覚を持った人が多い街の人口が減っているような・・・、あ、神戸市か。「須磨浦」を埋め立てて「須磨海岸」と呼び変えて須磨浦の景観と無関係な開発をする手法に、ちょっと似ている。

 

 

西須磨付近には不審火と思われるボヤが度々発生しているようである。

2022年8月28日

 

2023年11月22日

 

西須磨海岸(須磨浦を埋め立てて分断した西の部分の呼称のようである)は水上バイクや釣りをする人がいて、なかには、流木などで焚き火(キャンプファイヤーのように炎が上がる?)をして暖をとったり、タバコを吸ったりする人もいるそうだから火の不始末や飛び火の可能性もありそうだ。須磨塩カーブに続く線路付近は頻繁に電車が通るので、整備不良の電車からの火の粉が原因ということもありそうだ。夏場は枕木が自然発火することもあるそうなので、何が原因かは特定しづらそうだ。

 

とにかく、不審火は怖い。

 

 

 

 

 

 

この間、一の谷(鉄拐7番地)の方で大きな火事があった。

 

須磨浦のロープウェイに乗って、景色を眺めながら、「あの建物はなんだろうね?」などといっていた観光名所の建物が全焼したのだそうだ。

 

今も、火災原因は発表されていないようで、調査が続いているらしい。

 

 

新聞報道などによると、鉢伏山を焼き尽くすかのような大きな火柱が上がり、その炎は三宮方面からも見えたという。

 

古くから住む知人によると、一の谷の内裏跡のある辺り(正岡子規が滞在した場所から内裏跡へ続く坂道〈崖?〉)からは、阪神淡路大震災の時には、神戸市街を焼き尽くすような火災の大きな炎が見えだそうで、思い出しただけで、震えがくるそうだ。

 

阪神淡路大震災の当時は、神戸空襲の光景を思い出したという方もご存命だったという。

 

炎は、恐ろしいものだ。

 

消防庁の発表によると、

消防庁が発表した『平成24年(1月~12月)における火災の概要』によると、総出火件数は、4万4,102件。おおよそ1日あたり120件、12分ごとに1件の火災が発生したことになるとあります。種別では、建物火災が2万5,525件、車両火災が4,534件、林野火災が1,176件、船舶火災が86件、航空機火災が1件、その他の火災が1万2,780件でした。総出火件数を出火原因別にみると、第1位は「放火」で5,340件(12.1%)ですが、続いて多いのは「たばこ」で4,192件(9.5%)。以下、「コンロ」3,941件(8.9%)、「放火の疑い」3,184件(7.2%)、「たき火」2,425件(5.5%)の順になっています。

とあり、第1位の「放火」5,340件(12.1%)と「放火の疑い」3,184件(7.2%)を足すと、19.3%になり、5件に1件は放火ということらしい。

 

最近は、震災による大火などの時にだけ問題にされがちだが、むかしは、飛び火火災というのが多かったそうだ。

昔は、「飛び火火災」が多くあり、特に「煙突」「汽車」からの「火の粉による火災」としも取り上げられており、、昭和30年代の統計ではかなりの件数があり、「風呂屋の煙突」だけでもそれなりの数字が計上されている。

 

とあり、むかしは「飛び火火災」もメジャーな火災原因だったという。

 

東京消防庁も、「『対岸の火事』というと自分には無関係のことの例えですが、現実の火災ではまったく当てはまらない言葉です。というのは飛び火の恐ろしさが忘れられているからです。 」と、飛び火の恐ろしさについて書いている。

飛び火は、火災の現場からだけ発生するものではありません。 ふろの煙突から出る火の粉、電気のスパークによる火花、たき火から舞い上がる火の粉などが飛んで、火災となる例も多いのです。
火の粉といっても大きさはいろいろで、数ミリのものから数十センチメートルに及ぶものもあります。 飛距離は、ふつうは50から200メートル位ですが、2キロメートル以上の遠くまで飛ぶこともあります。

と。

 

「たき火から舞い上がる火の粉などが飛んで、火災となる例も多い」「飛距離は、ふつうは50から200メートル位で」「2キロメートル以上の遠くまで飛ぶことも」あるそうだ。

 

大火の時の燃え盛る炎による飛び火火災は、飛び火が原因であろうと推測しやすいが、焚き火からの飛び火火災の場合、焚き火から少し離れた場所で起こると、因果関係を証明することは不可能ではないだろうか。

 

その場合は不審火や「放火の疑い」ということになるのだろうか?

 

「火のない所に煙は立たぬ」というが、

 

飛び火によって、火の気のないところで火災が起きてしまうと、まるで怪談だ。

 

そんなこともあってか、

 

小泉八雲の短編に振袖火事(明暦の大火)を題材にした「振袖」という怪談がある。

小僧たちは火をたいて、そのなかへ衣裳を投げいれた。ところが、その絹の衣裳が燃えだすと、とつぜんそのうえに、目もくらむような炎の文字――「南無妙法蓮華経」という題目があらわれた。そして、これは一つ一つ、大きな火花のようになって、寺の屋根へ飛びあがり、寺に火が燃えついた。燃えあがる寺から、燃えさしが、やがて近所の屋根におち、すぐさま街じゅうが火炎につつまれた。そこへ、海風がまきおこって、さらに遠くの街々までも、火炎を吹きつけ、猛火は街から街へ、区から区へとひろがっていって、ついには、ほとんど江戸の街全体が、焼けくずれてしまった。明暦元年(一六五五年)一月十八日におこったこの大火は、「振袖火事」として、東京で今もなお、記憶されているのである。

この作品は明暦の大火の原因を怪談として伝えたものだが、科学的に解釈すれば、明暦の大火は、焚き火による飛び火火災を原因とした大火であったことの伝承で、それに対するいましめということになるだろう。

 

現在、この焚き火がブームなのだそうだ。

 

焚き火のポジティブな面を強調したがる方々は、飛び火による危険より、「焚き火がもつ癒し効果」を強調されているようだ。

衣食住に加え、火がもつもう一つ重要な要素が心のやすらぎです。山の中など文明から遠く離れた環境に身を置いたとき。災害など通常の社会生活を営む事ができない状況になったとき。人はストレス、不安、孤独を感じます。そんなとき暗闇の中で灯る明り、じんわりとした暖かさ、料理の美味しい香り、炎のゆらめきと薪の爆ぜる音が心を癒やしてくれます。焚き火がつくるこれらの要素が心の落ち着きを取り戻してくれます。

などと書いてある。

 

「山の中など文明から遠く離れた環境」「災害など通常の社会生活を営む事ができない状況」での焚き火の効果ということだが、

 

昨今は、庭で、焚き火(キャンプファイヤーのような大きな炎)をする輩も多いそうである。

 

この場合は、いやしというより、日常生活におけるストレスの解消ではないだろうか?

 

『平成22年版 犯罪白書』によると、

放火について,主たる動機の別及び主たる放火目的物(犯人が放火の対象物として最も強く意識していた物)の別に人員を見たものである。主たる放火目的物としては,他人の住宅が最も多く,次いで本人宅が多かった。また,主たる動機としては,憤まん・怨恨によるものが最も多いが,次いで,不満・ストレス発散のためのいわゆる愉快犯も多かった。

https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/57/nfm/n_57_2_7_2_1_1.html

のだそうだ。

 

「憤まん・怨恨による」放火も「憤まん・怨恨による」ストレスを解消することを目的としたと解釈すれば、放火の動機の殆ど(約65%)は不満・ストレス発散のためということになる。

 

年に1回、

左義長(とんど焼)

や、校庭でキャンプファイヤーをすることはあるかも知れないが、

 

毎週末、自宅の庭で数メートルの炎が上がるような焚き火をするお宅が、近所にあったら、頻繁に大きな炎を眺めてストレスを解消しないといけないって、どれだけストレスを抱えた人が住んでいるんだろうと、地域社会が不安に包まれることだろう。

 

大きな炎を見てストレスを解消する心理は、放火犯の心理と変わらない気はするが、所有地で法令を守って焚き火をする限りは、注意して見守るよりほかない。

 

もし、法令を無視するような焚き火をする輩がいたら、犯罪心理学の対象になるような心理の持ち主だろうから、関わらないのが一番だ。

 

焚き火で強く印象に残っている話がある。これは知人から聞いた1970年代の兵庫県西部での話しだが、一家心中したお宅のご主人が、庭に設置した錆びついたドラム缶焼却炉でゴミを燃やす姿が頻繁に見られたそうだ。※奥さんが小学生と中学生の娘さん二人を殺害、直後に奥さんに依頼されたご主人が奥さんを殺害し、死にきれなかったご主人が逮捕されるという事件があった。情状酌量されたそうだがご主人は刑期を終えたあと、すぐに自殺されたそうだ。

 

頻繁に焚き火をしたくなる衝動というのは・・・

 

話がそれたが、

 

「火災とまぎらわしい煙又は火炎を発するおそれのある行為」

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://www.city.kobe.lg.jp/documents/9316/form-number15.pdf&ved=2ahUKEwiVx5DA2OGFAxVlia8BHb_lCoUQFnoECAYQAQ&usg=AOvVaw22gVC6Y79Z79qjQj_WzRWG

には、通常は申請が必要だ。

 

土浦市消防本部のサイトでは

「『火災とまぎらわしい煙又は火炎を発するおそれのある行為の届出書』は焼却行為を許可するものではありません!!」との注意書きがすぐ見つかるが、神戸市のサイトでは注意書きが見つけられなかった。

 

「焼却行為を許可するものではありません!!」というのは、無許可のリサイクル業者が、建築廃材(産業廃棄物)などを、バーベキューやキャンプファイヤーと称して焼却(最終処分)するのを許可したわけではないという意味と思われる。

 

福岡県の遠賀郡消防本部のサイトでは「火災とまぎらわしい煙又は火炎を発するおそれのある行為の留意事項」として、

遠賀郡内の各町においては、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」により、廃棄物の焼却は禁止されています。また、住民から煙、異臭等による苦情も多発しています。よって、当該届出の廃棄物が一般廃棄物の場合は関係市町村へ、産業廃棄物の場合は遠賀保健福祉環境事務所へ本届出書を持参し、指導を受けて下さい。

と書いてあり、わかりやすい。

 

神戸市のサイトは、焚き火のネガティブな部分がヒットしにくくなっているような印象を受けてしまう。

 

神戸市では、焚き火を推奨しているので、なんらかの意図が働いているのかもしれない。

神戸市は、焚き火による火の粉を原因とした飛び火火災を甘く見すぎているのではないだろうか?

 

「焚きビギナー」に火の楽しさ(愉快犯的快楽?)を教えるより、火の恐ろしさをしっかり、教えておいた方がよいのではないだろうか。

 

諸説ありますが、人類が最初に手にした火は自然火災によってもたらされたものだと考えられています。

といわれているが、

 

これは、自然火災を模倣して(学んで)、人間が火を使うようになったということであるから、就学期(模倣や学習が習慣化している?)の子供が模倣して、火遊びをする可能性を高めることになりはしないか心配だ。

という記事には、

5人は同じ中学校の遊び仲間で、当日は山林でたき火をし、その上を跳び越える遊びをしていたという。同署の調べに対し「どんどん火が大きくなって消せなくなってしまった。消防車のサイレンの音が近づいてきたので怖くなって逃げた」と話しているという。

とある。子供は模倣したがるものなので、焚き火の癒し効果などポジティブな面だけを宣伝するのは、無責任である。喫煙の危険性を明示するように、焚き火の危険性を明示すべきだろう。

 

とにかく、火事は怖いし、焚き火も危ない。

 

神戸市が焚き火を推奨している時期なので、一の谷(鉄拐7番地)の火災(亡くなられた方がいらっしゃるそうだ)が、焚き火による火の粉を原因とした飛び火火災でないことを祈りたい。

 

 

 

2023年3月23日の『神戸新聞』に「養殖ノリ網に男性の遺体引っかかる 160センチ前後、目立った外傷なし 淡路市沖 | 事件・事故 | 神戸新聞NEXT」という記事があった。

 

この記事で、高浜虚子の俳句を思い出した。

 

潮引いて人海苔麁朶の中に在り 虚子

 

須磨浦(一の谷)をこよなく愛した正岡子規も「海苔麁朶」(のりそだ)の句を詠んでいる。

 

海苔粗朶の中を走るや帆掛船 子規

 

『寒山落木』明治二十八年 (1895年)の「春」にある句だが、須磨とは無関係のようである。

 

『神戸新聞NEXT』の「大半は業務用 スーパーで目にすることない「須磨海苔」とは | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT」という記事に、

須磨沖でのノリ養殖は、1961(昭和36)年ごろ、漁獲量が減る冬に代替の収入源として始まった。

とあることから、子規が須磨浦(一の谷)にいたころには、なかったようだ。

年間生産量は約9千万枚。「須磨海苔」のブランド名で全国各地に出荷されている。ただ有明産(佐賀県など)に比べ、「なじみがない」と感じている読者も多いのでは。それもそのはず、大半が業務用で、スーパーなどでその名を目にすることはないからだ。

と書いてあるが、有名になって、工場のある場所が知れてしまうと、

 

嵐山の中腹に鮎加工工場を作るようなモノ、若草山の中腹に鹿煎餅工場を作るようなモノ、などと、言われかねないから、ステルス名物になっているのだろうか?

 

そんなことは無いとは思うが・・・

 

もしも、そうなら、

 

名物で名所を潰す愚行かな 詠人不知

 

須磨海苔で須磨浦潰す愚行かな 詠人不知

 

などと、言われかねない愚行だと、自分たちでも薄々感じているということになりはしないだろうか?

 

そんなことは無いとは思うが・・・

 

今からでも、大手を振って宣伝できる場所に工場を移転させて、埋立地を除去して、日本文化や日本の歴史を大切にする神戸市をアピールすべきではないだろうか。

 

2023年06月10日の『神戸新聞NEXT』の

「須磨海水浴場とアジュール舞子 7月13日に海開き 神戸市内5カ所目『BE KOBE』を設置」という記事には、

アジュール舞子には、市内5カ所目となる「BE KOBE」のモニュメントを設置。

と埋立地のビーチに「BE KOBE」を設置したと書いてあった。

 

たしか名所の舞子海岸があったところだ。

 

異人館を曳家して公園のトイレのような雰囲気に変えてしまった場所の近くだ。

 

舞子や須磨は、新舞子や新須磨など他の地域にあやかり名所があるほどの名所だったのに、なんとも寂しい話しだ。

 

 

 

名所を埋め立てて、その記念碑がわりに「BE KOBE」のモニュメントを立てていくというのは、何かへの復讐なのかと思えるほど、悪趣味な気がする。

 

埋め立てて名所を潰しビーコーベ 詠人不知

 

「BE KOBE」のモニュメントは、「メリケンパーク」(神戸市中央区)、「しおさい公園」(神戸市中央区)、「つくはら大橋休憩所」(神戸市北区)、「神戸フルーツ・フラワーパーク大沢」(神戸市北区)などにあるらしいので、埋立地だけにあるということではないようだが……

 

2023年6月22日の『神戸新聞』の「神戸・三宮の『ガリバートンネル』、駅前再整備で撤去? 幾多もの苦難かいくぐった隠れた名所」という記事には、

神戸市中央区に住む男性会社員(48)は「デザインもハイカラなトンネル。神戸には意外に古いものが残っていないので、できれば壊さないでほしい」との声を本紙に寄せた。

とあった。

 

けっして、神戸市によるアンケート調査に現れることのない、神戸市民の正直な意見のような気がする。

 

神戸市は、本物を潰して回って、「BE KOBE」という記号をばらまく政策(宣伝?)をしているようにしか見えないのだが、私の気のせいだろうか?

 

トンネルを潰して残るビーコーベ 詠人不知

 

異人館潰して残るビーコーベ 詠人不知

 

居留地を潰して残るビーコーベ 詠人不知

 

舞子浜潰して残るビーコーベ 詠人不知

 

須磨浦を潰して残るビーコーベ 詠人不知

 

ありがたやビーコーベったらビーコーベ

 

ビーコーべの向こうに何が残るのだろうか?

 

本物を潰して残る記号かな 詠人不知

 

 

 

『平家物語』などを読んでいると、「須摩」と表記されているものがある。

 

須磨の別表記のようだ。

 

「須磨」の地名の由来は、


日本大百科全書(ニッポニカ)によると、

兵庫県神戸市西部の地区。須磨区の南部の地域で、旧須磨町。古来景勝の地として知られる。六甲(ろっこう)山地西端の鉢伏山(はちぶせやま)、鉄拐山(てっかいざん)、高倉山などは須磨浦公園あたりで急傾斜となって海に迫る。この「平地の行き詰まったスミ」が須磨の地名の由来である。

精選版 日本国語大辞典でも、

[一] (摂津国の西南の隅(すま)(=すみ)にあるところから呼ばれた) 兵庫県神戸市西部、六甲山地が大阪湾にせまる地域。

となっている。

 

「須磨」というのは、

 

なんだか中心から外れた、

 

隅っこにある場所のようで・・・

 

肩身が狭い感じがする。

 

でも、

 

「須摩」という字面で、まずピンとくるのは、「須摩提」だ。

 

『平家物語』の延慶本にある「一谷」の表記には「一谷」だけでなく、「難波一谷」「摂津国一谷」「摂津一谷」などがあるから、一の谷の位置は現在と異なる場所にあると主張して、一の谷という湖があったと断定する「鵯越」兵庫説に倣って読むと、

 

須磨の地名の由来に「須摩提」があっても良さそうなものだが、そのような説はないようだ。

「須摩提(しゅまだい )」というのは、

 

梵語スカーヴァティー (sukhāvatī) のガンダーラ語形またはそれに近い俗語の音写。 楽あるところの意。 阿弥陀仏の浄土のこと。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A0%88%E6%91%A9%E6%8F%90

だそうだ。
 
「楽あるところ」というのは「幸福のあるところ」という意味で、仏教でいうところの浄土(極楽)のことなのだそうだ。
 
「摂津国の西南の隅(すま)」というより、「須摩提(しゅまだい )」の方が、ありがたい気がする。
 
根拠はまったくないが、
 
わたしはここに、「鵯越」兵庫説に倣って、「須磨」「須摩提(しゅまだい )」を提唱したいと思う。
 
「須磨」を「須摩提(しゅまだい )」と思って眺めていると、
 

鉢伏山が、提壺や提瓶の取っ手の部分に見えてくるから不思議だ。

 

埋立地の西側から見た鉢伏山

 

神戸市のサイトに「航空機騒音定点監視結果(2017年5-6月)」

https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/archives/kokukisoon/teitenkannshi/teiten_201706.html というデータがある。

 

監視期間は、「2017年5月30日(火曜)~2017年6月1日(木曜)」の3日間で、

 

観測地点は、明石市八木、淡路市野島、神戸市須磨区一ノ谷町の3地点。

 

期間中(5月30日~6月1日〕の「神戸空港の離着陸機総数233機。」(注1より)

 

一の谷の「ピーク騒音の平均値(dB)」は52~ 61で、「航空機騒音のLAeq[dB]」は43.0~42.2だ。

 

このデータには注1の他に、

注2:これまでの調査結果により、航空機騒音の影響が小さかったため、No.3明石市南二見、No.6東灘区向洋町では平成19年度から、No.1明石市船上町、No.7兵庫区吉田町、No.10垂水区舞子台では平成20年度から、No.4淡路市岩屋では平成21年度から、No.8長田区南駒栄町では平成22年度から計測を休止している。

という注意書きがある。

 

注意書きではないが、データ表の欄外に「平成25年5月公表より様式を変更しました。」と書いてある。

 

お役所が、こういう書き方をする場合、「平成25年5月公表より様式を変更しました。」の方が、重要な場合が多い。古文書や『平家物語』を読むのにも、現在のお役人様の態度から、お上や勝者や利害関係者の日本人にありがちな態度を想定して、仮説を立てて読んで、古文書や記録が残っていそうな場所を徹底的に捜査するという研究手法があっても良いのではないだろうか、と思う。

 

話がそれた。

 

何か重大な発見があったかのような、書き方だが、ただ、他の観測地点のデータが気になっただけだ。

 

他の観測点のデータの

「航空機騒音定点監視結果(2006年2月)」(https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/archives/kokukisoon/teitenkannshi/teiten_200602.html 監視期間は、2006年2月年2月16日(木曜)~2006年2月年2月22日(水曜)の7日間。)

「航空機騒音定点監視結果(2006年10月)」(https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/archives/kokukisoon/teitenkannshi/teiten_200610.html 監視期間は、2006年10月17日(火曜)~2006年10月19日(木曜)の3日間。)

とを確認してみた。

 

「航空機騒音定点監視結果(2006年2月)」は、須磨区一の谷町(観測地点は一ノ谷4丁目自治会館、用途地域区分なし)は、観測機数計231機で「うるささ指数(WECPNL) 」55 、「ピーク騒音の平均値(dB)」65で、どうどう1位のうるささである。2位の明石市南二見(用途地域は工業専用地域)は観測機数計2機で39 、62。3位の神戸市長田区南駒栄町(用途地域は工業専用地域)は観測機数計130機で48、61。4位の神戸市兵庫区吉田町(第二種住居専用地域か?)は観測機数計147機で48、60。上位4位までが、「ピーク騒音の平均値(dB)」60以上である。

 

「航空機騒音定点監視結果(2006年10月)」は須磨区一の谷町が観測機数計84機で「うるささ指数(WECPNL) 」51、「ピーク騒音の平均値(dB)」63で1位。神戸市東灘区向洋町(商業地域か?)が観測機数計5機で37、61。神戸市垂水区舞子台(商業地域か?)が観測機数計51機で46、60。南駒栄町が観測機数計49機で45、60。吉田町が観測機数計27機で44、60。

 

向洋町は「60dBを超え60dBを超え2機(40.0%)」。舞子台は「60dBを超え70dB以下 19機(37.3%)」。南駒栄町は「60dBを超え70dB以下 18機(36.7%)」。吉田町は「60dBを超え70dB以下 10機(37.0%)」。

 

一の谷町は「60dBを超え70dB以下 47機(56.0%)」となっている。

 

 

17日が観測機数計27機で52、63。18日が観測機数計32機で53、64。19日が観測機数計34機で53、64。3日間の観測機数計は93機である。須磨区一の谷町が観測機数計84機なので、未確認飛行物体が9機着陸したことになる、のだろうか?

 

「神戸空港の飛行経路」https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/hikokero/index.html によると、離着陸は明石海峡を通るので、同じ時間帯に調査をした場合は、観測機数計は同じになるはずなので一の谷84機で垂水五色山93機はありえない。また、通常神戸空港に近い一の谷の方が高度が低いはずで、騒音も大きくなるはずである。※航路直下ではないが鉄拐山などの反響(木霊?)の影響も考える必要ありか?

 

なお「垂水五色山監視局」(神戸市垂水区五色山4丁目の五色塚、第一種中高層住居専用地域)の「ピーク騒音別機数」は年間で「60dB以下 308機(29.3%)」「60dBを超え70dB以下 733機(69.8%)」「70dB超 9機(0.9%)」となっている。「垂水五色山監視局」の「うるささ指数(WECPNL) 」と「ピーク騒音の平均値(dB)」年間平均は54、64である。一の谷の観測期間中の「うるささ指数(WECPNL) 」と「ピーク騒音の平均値(dB)」は51、63なので、年間通して観測すると「垂水五色山監視局」と同じくらいになりそうである。

 

観測機数計231機と標本数の多い「航空機騒音定点監視結果(2006年2月)」で、須磨区一の谷町(観測地点は一ノ谷4丁目自治会館、用途地域区分なし)は「うるささ指数(WECPNL) 」「ピーク騒音の平均値(dB)」が、55 、65であったことを考えると「垂水五色山監視局」より騒音が酷いかもしれない。

 

ちなみに「2006年度 航空機騒音常時監視結果」の「航空機騒音常時監視結果 ポートアイランド南監視局 2006年10月分」https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/archives/kokukisoon/jyouji-kansi/2006/portisland/pi_200610.html では、2006年10月17日(火曜)~2006年10月19日(木曜)の3日間の観測機数計は0で、データ無しである。

 

須磨区一の谷町(観測地点は一ノ谷4丁目自治会館、用途地域区分なし)は、山陽電鉄の線路のすぐ側の山側にあることから、山陽電鉄の騒音を除いて、ということなのだろうが、神戸空港を利用する旅客機の騒音の影響を調べるのが目的なら、鉄道・道路・工場・商業地域などがもともと近くにある場所で騒音監視するのは、あまり意味がないように思う。

 

「4. 新飛行経路による影響 - 国土交通省」https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwivj-67qLP4AhWDwYsBHfWzC1MQFnoECB8QAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.mlit.go.jp%2Fkoku%2Fhaneda%2Farchive%2Ffaq%2Fpdf%2F07.pdf&usg=AOvVaw3F4USfSitmAekm6e4t_ge7 をみると、機種別の想定騒音レベルがあるようなので、飛行航路沿い(騒音が予想される)の住居専用地域の神戸空港開港前の騒音レベルと開港後の騒音レベルを比較すべきだろう。

 

「神戸空港の飛行経路」https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/hikokero/index.html 、「神戸空港発着飛行機」https://www.kairport.co.jp/terminal/view/airplane 、「全便 フライト時刻表 - 神戸空港」https://www.kairport.co.jp/sp-flight/all.php などを合わせれば、明石から神戸市内の航空機騒音想定分布地図が簡単にできそうだ。

 

須磨区一の谷町(観測地点は一ノ谷4丁目自治会館、用途地域区分なし)の場合、一の谷4丁目ではなく、一の谷2丁目(第一種低層住居専用地域、安徳帝内裏跡あたり)で騒音監視すべきである。一の谷4丁目の観測地点より一の谷2丁目の方が標高が高かく低層住宅専用地域なので、周囲に音を遮る高層建築がないことから、より航空騒音が大きくなると考えられる(素人の仮説)。現在の観測地点より山側(250メートルほど)になるが現在の観測地点より神戸空港に近く(250メートルほど)標高も高い(25メートルほど)ことから、現在の観測地点より騒音が極端に少なくなるとは考えにくい、だろうたぶん。

 

「山、海へ行く」(須磨区や西区の山が海へ行って神戸空港などが出来たらしい)ために「鵯越、兵庫区へ行く」ということが必要だったように、「人、神戸空港へ行く」ためには航空機騒音観測点も、第一種低層住居専用地域から、商業地域・工業地域・指定無しの地域へ行く必要があったのかもしれない。

 

神戸市の「工場・事業場からの騒音・振動の規制について」https://www.city.kobe.lg.jp/a66958/business/todokede/kankyokyoku/souon/souon.html によると、

(騒音関係)

  昼間(8時から18時) 朝(6時から8時)
夕(18時から22時)
夜間(22時から6時)
第1種区域 50dB 45dB 40dB
第2種区域 60dB 50dB 45dB
第3種区域 65dB 60dB 50dB
第4種区域 70dB 70dB 60dB
となっている。
 

(騒音関係)
指定地域は、都市計画法における用途地域で4つに区分されています。

区域 用途地域
第1種区域 第一種低層住居専用地域、第二種低層住居専用地域、田園住居地域
第2種区域 第一種中高層住居専用地域、第二種中高層住居専用地域
第一種住居地域、第二種住居地域、準住居地域、市街化調整区域
第3種区域 近隣商業地域、商業地域、準工業地域
第4種区域 工業地域、工業専用地域(内陸部に限る)

 

第一種低層住居専用地域は、最も規制が厳しい地域で、現在ある観測地点は商業地域、工業地域、指定無しが多い。

 

環境省のサイトには「この環境基準は、航空機騒音、鉄道騒音及び建設作業騒音には適用しないものとする。」https://www.env.go.jp/kijun/oto1-1.html と書いてあるが、28機(2006年10月観測機数計84機÷3日機=28機/日。2006年2月観測機数計231機÷7日=33機/日)の約半分が60dB以上で飛んで、いや、今は76便に増えている(80便にするそうだ)そうだからその約半分が60dB以上で飛んでいるということになりそうだ。

 

7時から23時までで80便にするということだから、単純に計算すると1時間に5便(80便÷16時間〔23時-7時〕)飛ぶということになる。12分に1回、いや半分以上が60㏈を越えるということだから、24分に1回60デシベル以上の騒音がすることになる。※データが明らかにされていないが半分弱の便が60デシベル以下でも60デシベルに近いのかどうかで、話は全然違ってくる。

 

日本国内で、第一種低層住居専用地域で7時~23時の間に24分に1回(日に40便)も、60dB以上の飛行機騒音があるところってほかにあるのだろうか?

 

ま、騒音が大きいということは、航空機の飛行高度が低く、肉眼でもかなり大きく見えるということだから、一の谷は、航空ファンの聖地、なのかもしれない。

 

実際、日によってはエンジン音以外の音(空力騒音?)がキーン、ガガ、ガガと聞こえることもあるそうだ。

 

航空ファンは是非、神戸空港を使って一の谷へ。

 

※ついでに船の騒音の測定もしてもらいたいものだ。飛行機もそうとううるさいらしいが、未明からの船の騒音がハンパない(鉄拐山や鉢伏山、一の谷や二の谷の谷筋を反響して轟音に?)そうだ。「環境基準は、航空機騒音、鉄道騒音及び建設作業騒音には適用しない」らしいが、船の騒音は完全に野放しのようだ。

 

第一種低層住居専用地域といっても、

 

例外の騒音があるので不動産購入の際は十分注意しましょう。

 

 

 

吉川英治(歴史上の偉い人なので敬称略)の『随筆 新平家』に「一ノ谷」が登場する。

 

『随筆 新平家』(昭和33年初版)に収録の昭和26年(1951年)に書いた「新 平家今昔紀行」に「一の谷」の地名が登場する。『週刊朝日』での『新平家物語』の連載が1950年から1957年までらしいので、1950年前のことだろうと思われる。

 

史跡巡りの二日目の記述に「六月一日、舞子ホテルにて、雨。」とあるので、史跡巡りの一日目は5月31日であったと考えられる。時間をかけて調べると年月を正確に特定できると思うが、ネットで確認できる範囲では、昭和25年前後の5月31日から6月1日の話である。

 

『随筆 新平家』によると、

有馬では明朝、鵯越えから一ノ谷の史蹟案内をしてくださるために、神戸市史編纂の川辺賢武氏が来合わせる約束になっている。

と、神戸市史編纂の川辺賢武氏が吉川英治の案内をしたという。

 

史跡巡りの当日 、

 神戸の市史編纂にたずさわる川辺賢武氏が早くも来訪される。
「きょうはどういう御予定で」と、川辺氏はさっそく二万五千分ノ一地図を卓いっぱいに拡げた。そして京都から義経軍の潜行したいわゆる、鵯越(ひよどりご)え間道(かんどう)”の[#「間道(かんどう)”の」はママ]径路を、その豊かな郷土史の見地から何くれとなく説明された。
 これは後での笑い話だが、川辺氏はもちろんぼくら一行が、有馬を起点とし、丹波境から椅鹿(はしか)、淡河(おうご)、藍那(あいな)などの山岳地を踏破して、義経の進んだ径路どおり鵯越えに出るものと予定していた。そのため、ハイキング支度で来られたそうだし、ぼくも東京を出るときは、そのつもりで、ズックのゴルフ靴など携えては来たのであった。だが今はとてもそれほどな元気もない。「ともかく神戸まで出ようじゃありませんか、その上で」と、ただなんとなく腰を上げた。

と、「丹波境から椅鹿(はしか)、淡河(おうご)、藍那(あいな)などの山岳地を踏破して、義経の進んだ径路どおり鵯越えに出る」予定であったが、吉川英治は体調不良(腹痛)のため予定を変更している。

 

宿舎にしていた有馬温泉の旅館を出て

有馬道から神戸に入る。山手を東へ、生田区を一巡、生田神社で車を下りる。

吉川英治一行は、生田の森(中央区)のあたりをちょっと見て、

 車へもどって、すぐそこから市の北陵にある会下山(えげさん)へ急ぐ。
「会下山に立ってみるのが、いちばん要領を得られるでしょう。生田方面も鵯越えも、そして輪田岬から一ノ谷、須磨辺まで、一望ですから」と、これはもうぼくの意気地のない足つきを見て察しられた川辺氏の懇切なおすすめだった。(二九・七・一一)

と、一行は会下山(兵庫区会下山町)へ向かった。

 

そして、吉川英治は会下山で川辺氏から鵯越兵庫区説の説明を受ける事になる。

「こう考えるのです。私は」と、川辺氏はそこでいう。
「あの鵯越え口から、その山麓の長田方面にまで守備を布(し)いていた平ノ盛俊、能登守教経(のりつね)などの平家軍は、この会下山の天然な地形を決して利用せずにはいなかったろうということです。なぜならばですね」と、かなたこなたへ、歩を移しつつ、ここの戦略的な重要さをなお力説された。
「第一にここほど視野の利く所はありません。海陸、どこも見通しでしょう。鵯越えの抑えとして、絶好な一高地です。――もっとも、その鵯越えにも、従来、幾つもの異説があって、あれから夢野、刈藻(かるも)川へ南下して来る道と、また、山上の小道を西方へ反(そ)れて、鉄拐(てっかい)ヶ峰を迂回し、遠く一ノ谷の断崖の上に出たという説など区々ですがね。私には、平家が主力をおいたのは、この会下山で、そしてまた、義経が降りて来たのも、この会下山の西の低地、刈藻川すじから遠くないものと考えられるのです」
 川辺氏がいうところは、おおむねずっと以前に喜田貞吉博士が歴史地理学会の誌上に書いた所説と近いようであった。
 けれどその喜田博士説にしても、川辺氏のように、この会下山を重要視してはいない。一ノ谷逆落しというようないい伝えは、まったく誤りであり、鵯越えとは、そんな断崖絶壁を駆け落したのではなく、現今の夢野の坂道を長田町の方へ攻め下って来たに過ぎない、と断定しているだけである。
「その鵯越えの道とか、一ノ谷合戦の真相はどうかという点などを解く鍵はですね、つまり、会下山ですよ。ここへ来てみなければ分からんですよ。まあ、ゆっくり腰を下ろしてください。多言は要しませんから」
 と、川辺氏はかさねていった。ほんとに、こういう時にこそ、史蹟歩きの値うちはあるものだった。ぼくは幾たびもうなずいた。余りに課題は大きすぎるが、湿っぽい梅雨じめりの気流の中で、しきりに渋る腹鳴りを片手で抑えながら、とある石に腰をかけた。

と、腹痛で苦しむ吉川英治に川辺氏は「その鵯越えの道とか、一ノ谷合戦の真相はどうかという点などを解く鍵はですね、解く鍵はですね、つまり、会下山ですよ。」と、鵯越兵庫区説のキーポイントは会下山にあると、強調したという。

 

吉川英治は「おおむねずっと以前に喜田貞吉博士が歴史地理学会の誌上に書いた所説と近い」「喜田博士説にしても、川辺氏のように、この会下山を重要視してはいない。一ノ谷逆落しというようないい伝えは、まったく誤りであり、鵯越えとは、そんな断崖絶壁を駆け落したのではなく、現今の夢野の坂道を長田町の方へ攻め下って来たに過ぎない、と断定しているだけである。」と述べており、川辺氏が鵯越兵庫区説のキーポイントという「会下山の説明」が喜田貞吉の主張を補強するものであると、とらえたようである。

 

つぎに、吉川英治は川辺氏から会下山の地名の由来と『太平記』から源平合戦を類推して「会下山」の重要性を知るべきとの説明をうけ、以下のように書いて、

 会下山という名は、徳川期以後で、古くは、雲梯(うなで)ヶ岡といったらしい。法隆寺財産目録(天平期)には宇奈五(うなご)ヶ丘とも見えるという。
 だから、盛衰記や平家物語には、会下山という称もなく、うなでヶ岡とも書いてない。山手と総称されたり、ひと口に、ここも夢野と呼ばれていたのである。
 そのため、ここの地形も無名のままつい見落されて来たわけだろうが、その重要さは、ずっと後の延元元年、足利尊氏が九州に再起して東上のさい、楠正成が湊川を後ろに、この会下山から頓田山に陣したことでも考えられる。そのさい、足利勢の一部は、やはり鵯越えから長田へ出て来て、楠勢を、腹背から攻めたてているのである。
 それと、もっと重要なことは、天井(てんじょう)のような山丘地から来るものと知れている敵勢を、わざわざ、谷底のくぼや、視野のきかない麓に屈(かが)み込んで、待つばかはない。当然、それへ対するには、遠望も利(き)き、応変も自由な、そしてまた、どこへでも兵力を急派できる高地に司令部を持たねばならない。
 とすると、会下山は絶好な地点である。

と、結論している。

 

だが、「会下山という名は、徳川期以後で」ということは、「会下山」が、源平合戦と同時代の記録には存在しないということを示しており、根拠のない主張であることを吐露している。

 

つまり『平家物語』や『玉葉』など同時代の記録に出てくる「山の手」が「鵯越」であるとの証拠はないのである。

 

近年主張されるようになった(NHKなど)とされる多田行綱が鵯越を攻撃したとする説も、『玉葉』の「山の手」を「鵯越」と読み替えているだけである。

 

「山の手」が「鵯越」であるとの証拠が示されることはない。

 

鵯越論争は、地理学(現在の地理を問題とする)と歴史地理学を混同して、現在の地名を連呼すれば過去の地名と現在の地名が一致する呪術的技法を使って、過去の文献などによって証拠づけることなく(つまり証拠となる資料の新発見がないまま)、新説が誕生するという錬金術的秘法が使われている。

 

鵯越兵庫区説は、現在の「鵯越」の位置が絶対的に正しいものとして主張がはじまるが、その主張が文献などによって証拠づけられることはない。例:「『山の手』は『鵯越』なんです。」を二三回繰り返して、けっきょく「山の手」=「鵯越」を示す文献を最後まで示さない。「多田信綱は関西出身で鵯越辺りの地理に詳しかったんです」とか、一遍上人絵図のどの絵か示すことなく一遍上人絵図に大輪田泊あたりに湖が描かれていると主張しつつ「一の谷という湖があったんです」などという。

 

『玉葉』『吾妻鏡』に書いてないことを現在の地図や『平家物語』の感想から引っ張ってきて、想像を膨らませて主張する。『平家物語』で「鵯越」の位置がどう書いてあったかすら示さない。酷いのになると、引用元を明示せずに兵庫区の鵯越と大輪田泊の間の「湖」だか「池」を「一の谷」と呼んだという話が出てくる。

 

もし、「湖」や「池」を「谷」と呼ぶ用例が過去にあったのなら、日本語学的な新発見のような気がする。

 

歴史学でなく日本語学の学会で発表するべきだろう。

 

『随筆 新平家』には、ほとんど、想像や憶測だけという酒場談義のような主張もある。

 会下山を中心とする平軍と義経軍とが衝突した戦闘地域が分かれば、自然、義経の向かって来た通路も明らかになるわけである。
 平軍の教経(のりつね)は敗れて海上へ逃げたが、同陣の盛俊だの通盛(みちもり)などは、名倉池や東尻池の附近でみな戦死している。刈藻川の上流で、まさに会下山と鵯越えの中間といってよい。教経の弟業盛(なりもり)が戦死した所も、会下山から遠くではない。

と、会下山を中心として源平の戦闘があったと断言しているがそのようなことを示す文献はない、根拠のない断言を前提にしているが、教経の弟業盛(なりもり)が戦死した場所がその補強となればまだ良いが、教経の弟業盛(なりもり)が戦死した場所も、伝承であって文献などによって証拠づけられているわけではない。

 

会下山が見晴らしが良いからといって「平軍と義経軍とが衝突した戦闘地域が分か」るわけではない。

 

そして、

とにかく、世称、一ノ谷合戦で通って来たため、一ノ谷が義経にも平家方にも、主戦地と思われて来たが、ほんとは、一ノ谷、須磨海岸から、駒ヶ林、生田川、そして山手の刈藻川流域一帯を、当日の戦場と見なすべきである。
 だから、以後の誤解を避けるためには、その日の合戦を、次の三区域に分けて考えるのが、いちばんいいかとおもわれる。
(東方)生田川を中心とする源平両陣の衝突。
(北方)鵯越えと会下山との間の長田方面の衝突。
(西)明石方面からの磯づたいに一ノ谷の西木戸を突いた源氏と平家勢との戦い。
「その日、義経がいちばん気を揉んだのは、時間だったと思いますね。戦端をひらく時間の一致じゃなかったですか」「そうです、それですよ」と、ぼくの質問に川辺氏もうなずいた。
「前日から範頼が待機していた生田川口と、義経と別れて播州路から一ノ谷の海辺へ迂回した土肥実平の手勢と、そして鵯越えにかかった彼自身と、そう三方の攻勢が、時間的に不一致だったら、まったく、大失敗に終わりますからね」
「とすれば、鉄拐ヶ峰へ登って、一ノ谷の上へ出るなんて迂遠なことは、不可能でしょうな」
「馬などでそう易々と行ける山道ではありません。いくら捨て身でも」
「それでおよそ義経の径路はつかめた気がしましたよ。しかし、一ノ谷の奥には、安徳天皇の行宮(あんぐう)の址(あと)があったり、逆落しやら何やらの名所旧蹟もあるので、そっちじゃない、こっちだと書いたら恨まれましょうな」
「鵯越えは、これまでにも、議論になっていますからいいでしょうが、たとえば、熊谷直実と敦盛(あつもり)の史話などを抹殺したら、それは大変なことですよ。神戸市の名所旧蹟が幾つ減るかわかりませんからな。はははは」
「いや、史実は史実として追っても、庶民の持つ物語的な夢は尊重しましょうよ。須磨海岸には、須磨寺も風致の一つですし、そこの浪音には、熊谷と敦盛の連想もあった方が自然を見る伴奏にもなりますからな。あなたと違って、ぼくは歴史家ではないのだし」
 やがて会下山を降りながらも、ぼくらは尽きない話に興じていた。

と、歴史談義をしたことが書かれている。(東方)(北方)(西)の分類はよくある分類で、喜田貞吉も三つに分類していたように思う。よくある分類法である。

 

神戸市史編纂の川辺賢武氏の言葉だと思うが、酷いことをいっている。

「鵯越えは、これまでにも、議論になっていますからいいでしょうが、たとえば、熊谷直実と敦盛(あつもり)の史話などを抹殺したら、それは大変なことですよ。神戸市の名所旧蹟が幾つ減るかわかりませんからな。はははは」と。

 

こういうのは、今で言えば、鵯越兵庫区論の風評被害(鵯越兵庫区論には学術的な根拠がないので風評に当たるだろう)を被る人々のことを笑ったということになるだろう。

 

史実(学術的な根拠の有無)がどうであれ、『平家物語』の文学性やコンテンツツーリズムとしての『聖地巡礼』には影響がないように配慮すべきである。鵯越兵庫区説の評価を上げるために通説(須磨区一の谷)の価値を下げて(あるいは下がることを想像して)、笑うのはいかがなものだろうか。

 

「それは大変なことですよ。――中略―― はははは」というのは、

 

税金を使って、明石市の価値を下げるようなキャッチコピーのポスターをJR明石駅などに掲示して神戸市の価値が上がると思って宣伝するのに似ている気がする。

 

そんな神戸市職員(神戸市史編纂ということだから関係者?)の気質が、昭和から続いているということの歴史的な証拠といえる、ような気がしないだろうか?

 

とにかく、鵯越兵庫区説を主張する人々には『平家物語』に対する敬意や神戸市の観光政策に対する配慮がない。

 

兵庫区の価値を上げるために須磨区の価値を下げ、須磨区の価値を下げたほどに兵庫区の価値が上がらなければ、神戸市全体の観光的価値が下がるという想像力が働かない。

 

とにかく人の不幸を「はははは」と笑う。

 

神戸市の価値が下がれば、こんどは近隣の都市のイメージを下げて神戸市のイメージを上げようとする。神戸市周辺の都市のイメージが上がったのではなく、神戸市のイメージだけが下がっていることには全く気付かない。

 

『平家物語』や文学に対する敬意がないから、『平家物語』に「鵯越」がどう書かれているかを全く無視して、今現在の鵯越の場所と文学作品の『平家物語』に出てくる「鵯越」という単語を単純に比べる。

 

単純だから誰でもわかりやすく、話も広がりやすいから、繰り返し言えばどんどん広がる。

 

学術的に根拠づけられているわけではないから、単なる決めつけで『平家物語』が嘘を書いているかのような評価になる。

 

物語だからフィクションでも良いはずで、文学として楽しめば良いのに、文学として楽しむことを許さない。

 

『平家物語』に描かれた世界を感じようとして神戸を訪れる人にとっては、興ざめでしかない。

 

『平家物語』に書かれている物語の真実は文学的な真理として普遍性があると思うが、歴史学的な根拠もないお話で文学的な真理を傷つけるというのは、愚かなことだ。

 

『平家物語』のイメージが下がれば、松尾芭蕉がコンテンツツーリズムして一の谷の内裏屋敷を想像して涙を流した須磨一の谷を中心にした観光のイメージが木っ端みじんである。風評被害といわずしてなんだろう。

 

もう風評被害にあう人もいないくらいの廃れぶりだ。

 

歴史学的な根拠もないお話を、テレビや新聞がありがたい新説のように報道するが、

 

あれは、「STAP細胞は、あります」という論文の報道よりひどい。

 

「STAP細胞」の報道は、報道を切っ掛けにある程度科学的に検証された(ただし論文通りの実検結果がえられれば今後も評価が変わる可能性はある)ようだが、鵯越兵庫区説は、なんの検証もしていない。

 

『平家物語』延慶本を引用しているとする論文を紹介するのなら、せめて『平家物語』延慶本の「鵯越」関連の表記をチェックして長門本など主要な数種類の異本の「鵯越」関連の記述内容と比較してから、報道すべきだろう。

 

『玉葉』で「山の手」といっているのになぜ「山の手」=「鵯越」になるのか、明らかにしない(錬金術的秘法だから?)というのはいかがなものだろうか。

 

話がそれたが、

 

さすが、吉川英治という指摘もある。

 義経の鵯越えは、旧暦の二月七日だった。今の三月初めごろと考えていい。
 けれど彼が京都を立つ数日前は、都では降雪があった。丹波路は残んの雪があったろう。この辺の山坂はどうだったろうか。
 生田川口、明石口、そしてこことの三軍が、同時攻勢に出た時刻は、午前六時ごろであったという。途中はまだ暗かったにちがいない。友軍との諜し合わせは、約束だけで足りたろうか。峰々に人を伏せ、火合図なども用いたのではあるまいか。
 一歩誤れば、平軍の中へ、わざわざ、身を捨てに入るようなものである。この坂道を、そぞろ馳せ下る思いはどうだったろう。その朝の彼の眉は。彼の姿は。そして暁の下に、敵を見たせつなは。
 暮れかかる梅雨雲の下に、ぼくは果てない空想を追っていた。附近の谷にも峰にも、一羽の鳥影さえ、よぎりもしない。

と。

 

「友軍との諜し合わせは、約束だけで足りたろうか。峰々に人を伏せ、火合図なども用いたのではあるまいか。」というのは、このブログで義経が烽火などを利用した可能性を指摘したことと一致している。

 

「一歩誤れば、平軍の中へ、わざわざ、身を捨てに入るようなものである。」というのも、このブログで、兵庫区の鵯越から大輪田泊を攻めるのは奇襲にならないと指摘しているのと一致する。

 

「附近の谷にも峰にも、一羽の鳥影さえ、よぎりもしない。」というのは、鵯の渡りの位置がはたして兵庫区の鵯越なのかという素朴な疑問が生じる。学者なら、本来は動物地理学を応用して、鵯の渡りの位置を確認しておきたいと思うことだろう。ちなみに5月末から6月初めの一の谷では、曇りでも小雨でもいろんな種類の鳥がひっきりなしに鳴いている。

 

残念なことに、腹痛のせいか吉川英治は、会下山の景色と鵯越兵庫区説を主張する人の押しの強さにやられてしまったようだ。

 

会下山を訪れた翌日、吉川英治一行は、一ノ谷へと向かうはずであった。

 雨は翌日も降りやまず、ぼくの腹ぐあいも、依然、五月雨紀行にふさわしいままである。晴天なら一ノ谷、須磨寺巡りの予定だったが、その勇気もない。午後、春海氏、健吉さん、Kさん、川辺氏など晴間を見て、須磨寺へ出かける。ぼくは懐炉をヘソに当ててむなしく寝て待つ。
 惜しいのは、一ノ谷に来ていながら、一ノ谷を踏まないことだが、須磨寺はまず見ずともよしと思う。そして会下山と鵯越えときのうの展望を瞼に、うつらうつら、半眠りの中に、ひとりで幻想をほしいままにしていた。

 

「小説は小説としてお書きになることもとよりでしょうが、余りに間違いの多い旧来の一ノ谷合戦だけは、どうか忠実に近い裏づけをもってお書きください。『新・平家物語』にそれを期待しているのは小生のみではありません」
 これと同様な意味の読者の声を、ぼくは幾通も手にしていた。神戸市史談会の木村省三氏など、わけて熱心な書を寄せられた一人である。
 須磨寺へは行かないでもすむように、小説を書くのになにもいちいち実地を見て歩く必要はないともいえる。けれど、どんな史書を読むにも増して、そこの土壌を踏んでみることの方が、ぼくには創作の力づけになる。また発見があり、自己の構想と落筆に信念を加えることも出来るのだった。
 ところが、自分の不摂生のため、せっかく案内の任に当って下すった川辺氏にも、杉本画伯や春海局次長にも、なんとも張合いのないお心を煩わせたし、特に読者諸氏には、二回にわたるこんな五月雨紀行で責めをふさぐなどの無責任をお見せしたが、次回からは、多少この旅行でえたところの収穫を生かして、本題の小説を書きつづける。
 しかし、お断りしておくが、おそらくそれはなお史実といえるものではあるまい。といって、ぼくは決して単なる虚構を書こうとするものではない。

 厳密にいえば、真実などというものは、朝見たことも、晩には違う話に伝わり易いものである。Aの見方と、Bの観察もまた違う。まして、はるかな歴史のかなたのこととなっては、縹渺(ひょうびょう)として、分からないというのが本当なところである。それを追求して、真を解かずにおかないとするのが、史家の科学であり、それを再現して、真に迫るかの如く語ろうとするのが、文芸の徒の妄執である。史家は、物的証拠をもってし、ぼくらは自分の人間性をとおして過去の人間性との官能につなぎを求め、その言動までを描いてゆく。二者、方法はまったく違うが、時には、文学が史学の透視しえない真をものぞきうることもありえないことではない。

と、なんだかスゴイ良いことをいっているようなのだが、けっきょく吉川英治は一の谷を訪れることなく、東京へ帰ってしまった。

 

『随筆 新平家』で吉川英治が
「『小説は小説としてお書きになることもとよりでしょうが、余りに間違いの多い旧来の一ノ谷合戦だけは、どうか忠実に近い裏づけをもってお書きください。「新・平家物語」にそれを期待しているのは小生のみではありません』これと同様な意味の読者の声を、ぼくは幾通も手にしていた。神戸市史談会の木村省三氏など、わけて熱心な書を寄せられた一人である。」と書いていることが気になる。※「神戸市史談会」は神戸史談会の誤記か。

 

「余りに間違いの多い旧来の一ノ谷合戦だけは、どうか忠実に近い裏づけをもってお書きください。」と「神戸市史談会」の投書について書いてあるが、この投書の主張は学術的な根拠のある主張ではないはずである。

 

吉川英治一行を案内した神戸市史編纂の川辺賢武氏は神戸史学会や神戸史談会で活動(寄稿している)していたようで、神戸市史編集室の勤務経験があり神戸史学会の代表でもあった落合重信氏も鵯越兵庫区説である。

 

吉川英治が指摘しているように、神戸市史編纂の川辺賢武氏の鵯越兵庫区説は喜田貞吉博士の論に、会下山を加えたものである。

 

喜田貞吉博士は『神戸市史 別録1』の「古代の兵庫及び附近の沿革」を担当し、被差別部落研究の先駆者として知られている研究者で、神戸市史編集室勤務だった落合重信氏は、神戸市や兵庫県の郷土史の他、部落史、在日朝鮮人史を研究した人物である。

 

喜田貞吉博士の主張を信じる川辺賢武氏や落合重信氏などの郷土史家の集まり、いわば神戸市史編纂室学派のようなものがあり、その派閥の人々が何かの利害で結びついて、鵯越兵庫区説を唱えているかのようである。

 

神戸市編『神戸市史 別録1』(大正11年)には、

当時の実録として、先づ第一に推すべき日記玉葉の如きは、記事極めて粗略なるが上に、中には単に風聞によりて記せりと思はるゝの嫌あるものなきにあらず。吾妻鏡亦其の経過を記して詳ならざるのみならず、上文記す如く是れ亦頗る誇張の報告に基づけるの疑あり。然れども今是裸の書をし措きては、他に殆ど據るべきものなきが故に、暫く其の記する所を本として、傍ら諸種の平家物語○源平盛衰記亦平家物語の一本たるに過ぎず を参酌して、之を其の実地に徴し、之を当時の情勢に鑑みて、私かに合理的判断を下すの外にあらざるなり。

と書いてある。

 

つまり、歴史学的な解釈では、実録は粗略な『玉葉』しかなく『吾妻鏡』も詳細は不明で誇張が多く『平家物語』を「参酌して、之を其の実地に徴し、之を当時の情勢に鑑みて、私かに合理的判断を下す」ほかないということである。

 

学問的には実録の『玉葉』に書かれている以上のことは、新たな古文書や碑文でも発見されないかぎりは、新事実は何一つわからないということである。このことを知っていて、鵯越兵庫区説を主張するのだから確信犯と言って良いだろう。

 

鵯越兵庫区説では、錬金術的秘法に使う部分は記録文学であるかのように扱って、それ以外は文学作品の脚色(フィクション)であるといって無価値のように扱う。

 

『玉葉』や『吾妻鏡』にないことを、何の証拠も示さずに想像力を膨らませて「私かに合理的判断を下す」という錬金術的秘法によって、『平家物語』の記述で補って新たな物語をつくるのであれば、それは『平家物語』の下手な模倣でしかない。

 

鵯越の位置論争といわれる根拠のない言いがかりの恐ろしいところは、『平家物語』の価値より、『平家物語』の下手な模倣作品の方の価値が高いという主張になっているところである。

 

『平家物語』に敬意を示すことなく「史話などを抹殺したら、それは大変なことですよ。神戸市の名所旧蹟が幾つ減るかわかりませんからな。はははは」というのは、なんと驕った物言いだろう。足りない部分を補うために使わせていただいておきながら、「はははは」は、ないだろう。

 

そもそも『平家物語』の登場人物、場面設定、風景描写などなど、あれだけの分量を想像力だけで書けるだろうか、目撃談を集め現地を確認した(遊行僧、高野聖などがあやしい)とか、なんらかの資料(河野氏や屋島から源氏に寝返った田口氏の伝承や家伝があやしい)を使ったと考える方が合理的だろう。

 

それを、現在の地理のたった一つの地名(地理学?)を物語(文学?)に持ち込んで、歴史的(歴史学?錬金術的秘法?)にこうでなければおかしいといって『平家物語』を笑うなど、まともな学者がすることではない。

 

あたかも、『平家物語』の文学的価値を貶めることが目的かのようである。

 

鵯越兵庫区説は、無理筋の主張のような気がしてならない。

 

鵯越兵庫区説は、『平家物語』より「山、海へ行く」という「株式会社神戸市」の物語と深い関係があるような気がする。

 

神戸市兵庫区里山町の山野井児童公園には、

源平の合戦で源義経が行った「鵯越の逆落し」の古戦場は、この一帯であると云われている。
神戸市長 宮崎辰雄

という石碑がある。

 

宮崎辰雄氏は第13代神戸市長(1969年 - 1989年)で、第12代神戸市長(1949年 - 1969年)原口忠次郎氏のあとを継いで「山、海へ行く」という政策を推進した人物である。

 

どうも、鵯越兵庫区説からは政治の匂いがする。

 

「山、海へ行く」という「株式会社神戸市」の錬金術のために「鵯越、兵庫区へ行く」というお話が必要だったのではないだろうか。

 

須磨の山は海へ行って、ポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などになって、須磨の山の跡はニュータウンになった。

 

「株式会社神戸市」の錬金術の物語が終って、何が残ったのだろうか。

 

 

 

『太平記』で「須磨の上野」(一の谷)や

「鵯越」がどのように表現されているか調べてみた。

 

天正6年(1578)写本の『太平記』では、

「鹿松ノ𡊣鵯越須磨ノ上野」

※𡊣は「岡」の旧字体。

 

慶長8 (1603)写本の『太平記』では、

「須磨ノ上野ト鹿松𦊆鵯越ノ方ヨリ」

 

貞享5年 (1688)写本の『太平記』では、

「須磨ノ上野ト鹿松𦊆鵯越ノ方ヨリ」

 

永井一孝校訂の『太平記』(有朋堂書店, 1922)では、

「須磨の上野と、鹿松岡、鵯越の方より」

となっていた。

 

鹿松岡というのは、

むかし高取山の北の麓の高台を越えるあたりに

鹿松峠というのがあったそうだから、

その峠のある岡なり山なりを鹿松岡と呼んだのだろう。

 

そうだとすると鹿松岡は、

長田区鹿松町あたり(高取山の北の麓にあたる)にあった

岡ということになるだろう。

 

須磨の上野と鵯越は

直線距離で6.5キロ程度で、

 

長田区鹿松町は鵯越の碑から

直線距離で1.2キロ程度だから、

兵士や騎馬の間隔などを考慮すると、

 

足利勢は会下山の楠木勢を

須磨の上野と

鹿松岡鵯越の2方面から

攻撃したということになるだろう。

 

また、

天正6年(1578)写本の

『太平記』は「鹿松ノ𡊣鵯越」が先に、

慶長8 (1603)と貞享5年 (1688)の

写本の『太平記』では

「須磨ノ上野」が先に書かれている。

※𡊣は「岡」の旧字体。

 

このことは、

「鹿松ノ𡊣鵯越」「須磨ノ上野」と

二つに分けて読むということだから、

2方面からの攻撃は元の記述と合うように思われる。

※𡊣は「岡」の旧字体。

 

大正11年の永井一孝校訂の『太平記』は、

元和(1615年から1624年)の片仮名本を底本にして、

読点が加えられているが、

文字の順序は、

慶長8 (1603)と貞享5年 (1688)の写本と同じである。

 

ところが、

永井一孝校訂の『太平記』(有朋堂書店, 1922)では

「須磨の上野と、鹿松岡、鵯越の方より」と、

 

「鹿松岡、鵯越」と「鹿松岡」と

「鵯越」の間に「、」を加えてしまったために、

3方向から攻撃したかのような表現になっている。

 

『太平記』では、

「須磨の上野」(一の谷を含む)と「鵯越」が

別の場所として表現されているから、

『平家物語』に出てくる

鵯越は現在の位置としか考えられないと

主張する人がいるかもしれないが、

 

校訂前の『太平記』では

「鵯越」ではなく「鹿松岡鵯越」となっている。

 

『平家物語』延慶本の

「かたきのじやうのうしろなるひよどりごへをのぼりにける」

と同じように

 

「鵯越」を六甲山全山縦走コースのように

東から西に続く道として読めば、

 

「鹿松岡鵯越」は

鹿松岡(長田区鹿松町か?)辺りの鵯越

という意味に読めるように思う。

 

 

※以前このブログで『平家物語』延慶本に書かれている鵯越は、六甲山全山縦走コースのように東から西に続く道であるから、「かたきのじやうのうしろなるひよどりごへをのぼりにける」は敵の城(一の谷)の後ろの鵯越を登るという意味に読んでも、鵯越の位置に矛盾は生じないという趣旨のことを書いた。


 

 

 

 

 

 


 

 

『太平記』によると、

 

湊川合戦の際、足利直義の軍勢が、須磨の上野と鹿松岡鵯越から、湊川の湊川の西の宿(会下山らしい)に陣取った楠木正成を攻めている。この時、新田義貞の軍は和田岬に布陣していたそうだ。

 

むかしは須磨寺(正式名称は上野山福祥寺らしい。義経が敦盛の首実検をしたらしい。)のあたりと一の谷2丁目のあたりも「須磨の上野」と呼んだらしいから、『太平記』に登場する「須磨の上野」は一の谷の辺りと考えても良いだろう。会下山から見た方角的にも大きな間違いとは言えないだろう。

 

足利勢は、一の谷の方角と鵯越から会下山を攻めたが、鵯越からの攻撃を奇襲などとは呼んでいない。新田義貞が陣取った和田岬は大輪田の泊とだいたい同じ場所で、会下山の楠木正成は和田岬の新田義貞を陸からの攻撃から守るための布陣ということなのだろう。

 

『太平記』によると足利勢が生田の森に上陸したので、新田義貞は退路を断たれるのを恐れて、西の宮まで撤退し、その結果会下山の楠木正成兄弟が孤立し、自刃したということになっている。

 

退路というのは、結局兵站も兼ねているいるので、一の谷の戦いでいえば、生田の森に源範頼の軍が来て、一の谷を源義経が落としたのと丁度東西が逆になっている。

 

平家は都落ちの後、盛り返して九州、四国、備前(備中水島)、播磨(室)を経て福原へ戻ってきたので退路や補給路は一の谷の側(西)になり、楠木正成や新田義貞は京都や千早赤阪村から来ていたので退路や補給路は生田の森側(東)になる。

 

一の谷の戦いも湊川合戦も退路(補給路)を断たれた方が早々に撤退している。

 

なにがいいたいかというと、鵯越兵庫区説の方々は、鵯越からの奇襲攻撃が勝敗を決する重要なことのように主張されているが、普通に考えると、退路と兵站(補給路、有視界通信網含む)を断つことが、勝敗を決するということだ。

 

『平家物語』の一の谷の戦いでは一の谷を落として平家の退路と兵站(補給路)を断つこと、『太平記』では生田の森に上陸することで新田勢の退路と兵站(補給路)を断つことが、戦略上重要だったということだ。

 

城郭建築の発達した戦国時代の荒木村重の謀反の時も、信長に一の谷から昆陽まで包囲されて兵站を断たれ、播磨と摂津の西の制海権を押さえられてしまうと、毛利勢の援軍(籠城の前提のはず?だが・・・『信長公記』には村重謀反の理由はなかったような気がするが。)がなければ、村重は伊丹、尼崎、花隈、中国へと落ちて行くしかなかった。

 

平家や新田勢が退路と兵站(補給路、有視界通信網含む)を断たれた状態で、大輪田の泊(和田岬)で戦闘を続ければ、荒木村重と同じようになっていたことは、想像に難くない。

 

『太平記』では、楠木正成兄弟が6回ほど会下山から須磨の上野あたりまで押し返して物語を盛り上げて、湊川合戦(会下山の東が湊川)らしい表現になっているが、一の谷の戦いと同じネーミング方法(勝敗を決する要所の地名+戦い)なら、生田の森の戦いになっていたことだろう。

 

 

 

 

 

織田信長が桶狭間の合戦の時、出陣の前に『敦盛』を舞ったことは有名だ。

『信長公記』には、

この時、信長は「敦盛」の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧よろいをつけ、立ったまま食事をとり、兜かぶとをかぶって出陣した。

と書いてある。

 

死ぬかもしれないときに『敦盛』を舞うとは、そうとうな敦盛好きである。

 

『信長公記』に武田信玄が天沢和尚に信長の趣味を尋ねたという話がある。

 

それによると、信玄が信長の趣味は何かと問うと天沢和尚は「舞と小唄です」と答え、

舞については、

『敦あつ盛もり』を一番舞うほかは、お舞いになりません。『人間五十年、下げ天てんの内をくらぶれば、夢ゆめ幻まぼろしのごとくなり(6)』これをうたいなれてお舞いになります。

小唄については、

『死のふは一いち定じょう、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの(7)』これでございます

という小唄を好んで歌うと答えたという。

注(6)(7)によると、それぞれの意味は以下の通りになるそうだ。

(6)人間五十年云々=人の一生は五十年。仏教でいう化楽天の時間に換算すれば、夢か幻のように短くはかないものだ。

(7)死のふは一定云々=死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらうよすがとして何をしておこうか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろう。

敦盛では、敦盛は笛を忘れて取りに戻ったために熊谷直実に討ち取られてしまうが、それによって後世の人々が敦盛を思い出す「よすが」になっている。

 

人の一生は「短くはかないもの」だが、つまらないこと(笛を取りに帰って殺された)でも、死後に自分を思い出してもらう「よすが」になるのなら、自分は「何をしておこうか」と常に問う求道者のような信長の姿が浮かぶようだ。

 

桶狭間の合戦、延暦寺の焼き討ち、長篠合戦、本能寺の変など信長を思い出す「よすが」が、敦盛と違って華々しいものが多いのは、常に「何をしておこうか」と考えて行動していたからだろうか。

 

敦盛ファンの信長を、一の谷ファンだから義経ファンに違いないと思ってか、永禄11年に信長が入京した際に

一の谷の合戦に、鉄拐山(26)の崖を駆け下った時、着用していた鎧を献上した者もいた。

という。

 

このことから『信長公記』では、一の谷の合戦で、義経が下った崖は鉄拐山の崖となっていることがわかる。著者の太田牛一は、鵯越は鉄拐山の南斜面にあったとの鵯越一の谷説で『信長公記』を書いている。また、このことは少なくとも『信長公記』が書かれた時点で一の谷の後ろの山を鉄拐山と呼んでいたことを示している。

 

『信長公記』によると一の谷は信長の指示で焼き払われている。

 

天正6年に荒木村重が謀反した際に、

十一月二十八日、信長は敵の本拠近く小屋野(22)まで進出した。四方から詰め寄って、要所要所に陣を構えるよう命じた。 一方、一帯の村々の農民たちは、揃って甲山(23)へ逃げ込んでしまった。信長は、許可も受けずにけしからぬことと思ったのか、堀秀政・万見重元に命じ、諸勢の徴発隊員を率いさせて、山々を探索させた。発見した農民たちは切り捨て、また兵糧や物資を思い思いに際限もなく徴発してきた。 次いで、滝川一益・丹羽長秀を出撃させた。両軍は、西宮(23)・茨住吉(24)・芦屋(25)の里・雀ガ松原(26)・三陰(27)の宿・滝山(28)・生田の森(29)へ進出した。さらに敵方荒木元清が花熊(30)に立て籠もっているのを軍勢を配 して封じ込め、山手を通って兵庫(31)へ進撃した。僧俗・男女の別なく撫で斬りに切り殺し、堂塔・伽藍・仏像・経巻の一堂一物も残さず一斉に焼き払い、さらに須磨・一の谷(32)まで進んで火を放った。

とあり、

十二月四日、滝川一益・丹羽長秀は兵庫・一の谷を焼き払って軍勢を引き返し、伊丹をにらんで塚口(5)に陣を張った。

と書いてある。

 

信長が、甲山(西宮市、有岡城の西)から一の谷(鉄拐山)までを焼き払ったのは、有岡城から一の谷までの烽火や火や旗などによる有視界通信網を破壊し、播磨や中国地方の毛利の援軍を防ぐ目的だったと思われる。

 

 荒木村重ははじめ有岡城(伊丹市)に籠もって、尼崎城(尼崎市)に移って花熊城(神戸市中央区花隈町)を経由して尾道(毛利の支配地)へ逃れたといわれている。荒木村重は、播磨や中国地方への有視界通信網が途絶えて、連絡や援軍がないのに焦れて有岡城(伊丹市)から、尼崎、花隈(神戸市中央区)へと移っていったのではないだろうか。平家の武将が一の谷へ走って討ち取られて行ったのに似ている気がする。

 

時間は前後するが天正6年

六月二十九日、信長は、兵庫と明石(5)の間、また明石から高砂(6)の間は距離があるので、毛利方の水軍を警戒するため、しかるべき陣地を準備するよう命じ、織田信澄と山城衆を加えて万見重元を派遣した。万見は適切な山に陣地を築いて帰還し、情況を復命した。このほか、織田信忠の命令で、道筋の要所要所に林秀貞・市橋長利・浅井政澄・和田八郎・中島勝太・塚本小大膳・簗田広正が派遣され、交替で警固に当たった。

と書かれており、信長は「毛利方の水軍を警戒するため」に、つまり、明石海峡と神戸沖の大阪湾と播磨灘の東半分の制海権を押さえるために、陣地をつくったことになる。
 

「兵庫と明石(5)の間」のもっとも見晴らしの良い場所が一の谷の鉄拐山、旗振山、鉢伏山である。

 

源平合戦の時代だけでなく、信長の時代も、瀬戸内海の制海権を押さえるためには、一の谷(鉄拐山・旗振山・鉢伏山含む)は極めて重要な拠点だったはずだが、『信長公記』にはあまり詳しく書いてない。

 

敦盛ファンの信長が一の谷を訪れていても良いようなものだが、そんな記録は見当たらなかった。

 

『信長公記』が書かれた時点でも有視界通信網の重要拠点だったため軍事機密に属していた、からかもしれない。

 

信長は、天正10年、甲斐から帰陣の途中に、徳川家康の接待を受けて富士山などを観光し「源頼朝が狩りの館を建てた上井手(9)の丸山」を訪ねている。

 

徳川家康が頼朝縁の地を信長の接待に使ったということは、草履取りから信長に仕え、信長が敦盛ファンであることを知っている豊臣秀吉なら、敦盛縁の地を信長の接待に使うに違いない、と思うのはわたしだけではないだろう。

 

歴史にもしもはないが、もしも、天正10年6月2日(1582年6月21日)に本能寺の変が起こらずに、信長が中国攻めに出て中国を平定していたなら、信長は豊臣秀吉の接待を受けて、大輪田の泊(兵庫津)や一の谷の海岸を訪れていたのではないだろうか。

 

 

なお、『信長公記』は

を使った。