神の現象について
三森至樹
神という言葉はよく使われるが、しかし神を見たものはいない。
もちろん、神の像とか仮面とか、神の存在を示す象徴とかはたくさんある。しかし神そのものを見た人はいない。その「神」って何なのだろう。
思うに神について理解するのには、ユング心理学の考えを使って説明するのが一番良いように思う。つまり、神とは、ユングのいわゆる「自己」だというふうに。そのようなものだから、神は見えないのだと。
ユングによると、われわれの心には二つ中心がある。一つは「自我」で、もう一つが「自己」だ。自我というのは、われわれが「このわたし」として意識している心であって、われわれは「このわたし」を中心として自分自身もこの世界も意識している。われわれは何でも「このわたし」の自分の思い通りに生きているし、自分自身については自分でコントロールできるし、自分ですべての責任がとれると思っている。
しかし、ユングたちの発見によって、この世界には、自分たちの意識通りに支配できない世界、つまり無意識の世界があるということが分かってきた。そこでユングは、われわれの心には、われわれの自我以外に、その自我も含めた心があって、その自我も含めた全体の心を統合する中心があると主張するようになった。その全体の心の中心を、ユングは「自己」と呼んだ。そしてユングは自分の思想の中心テーマは、自我と自己の統合を実現することであるとした。
そこで「自己」というのは、そもそも原理的に、自我の対象として客観化し、支配することができないことが分かる。つまり自己というのはそのものとして対象化し、目に見えるようにすることはできないということだ。自己は自我を超えた、全体の心のことだからだ。
もちろん、その自己を象徴するもの、神の像とか、イメージとか、しるしとかとして対象化することはできるし、それは必要だ。しかしそれらは自己そのものではない。そのことも、認識しておく必要がある。
このように考えてくると、ユングの言う「自己」というのは、正しく理解されれば、「神」というのに最も近いということが分かる。ユングが「神」という言葉を使わなかったのは、その当時のキリスト教世界で考えられていた神観念とは違うということを強調したかったからではないかと思われる。つまり誤解されるのを避けたかったからだろう。
今は、神というのは、ユングの言う「自己」だと考えるのが納得できると思う。そして神は、全ての人が理解できるように、目に見えるものではなく、その存在が感じられるものだ。今で言う「神ってる」というのも、神についての正しい感じ方だとも言えそうだ。神は目に見えるモノではないから。
しかしとりわけ、神が感じられるのは、普通ではありえないような異常、怪異というべきものに接したときだろう。ルドルフ・オットーの言う「聖なるもの」、ヌミノーゼの感覚だ。そんなときわれわれは「鳥肌が立つ」という。ルターはそのような神の現れ方を、本来の神とは異なる「神の異なるわざ」と呼んだと思う。怖れとおののきにおいて現れる神だ。
わたしが今この文章を書いているのも、今世界を騒がせている「トランプ現象」の中に、多くの人が「神」を感じているかもしれないと思うからだ。トランプを「神ってる」というのも変かもしれないが。