浦島太郎のこと(2)
三森至樹
そもそも年を取って体が弱っていくことは、悪いことだろうか。最後に浦島太郎が身寄りもない老人となって終わるということは、読者にとっては、割り切れない不条理な話の展開だと感じられ、この話は尻切れトンボで、よい話ではないと思われるのだが、それはそもそも年を取ることは悪い結末だという先入観があるからだろう。
しかし、年を取ることは一概に悪いと決めつけてよいものだろうか。年を取ることは老成という言葉もあるように、年月をかけて智恵が成熟してきたことを象徴するものでもないだろうか。
このように考えると、浦島太郎が老人と化して話か終わるということについては、よい大団円だというふうに肯定的にとらえられるのではないだろうか。
ここではこのように考えて、浦島太郎の物語を考え直してみたい。
さて、浦島太郎は漁師だった。そういえば、イエスの最初の弟子たち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネたちも漁師だった。そしてこの三人は、弟子たちの中でも主だったものと考えられており、この三人は常にイエスに同行していた。例えば、イエスが山の上で姿を変えたときに、一緒にいたのはこの三人だった。その中でもペテロは、弟子たちの中のリーダーと見なされていた。
福音書はをイエスの言葉や行動を伝える記録のようなもので、使徒言行録はイエスの死後、その弟子たちが活動していった記録のように考えられている。しかし、一つの見方では、福音書も使徒言行録も、弟子たちの成長を記録した文書と考えることもできる。
弟子たちはもともと漁師であったり、徴税人であったり、ならず者だったりするごく普通の若者たちであったが、彼らはイエスに呼び集められ、三年の間イエスとともに行動するうちに、いろいろな経験を経て成長していき、使徒たちとしてイエスの後を継ぐものとなっていった。この三年の彼らの経験は、彼らにとって、竜宮城での経験だったとも言える。つまり彼らの経験は、特別な人と共に暮らすことによる精神の変容の過程だったと言えるわけだ。
浦島の竜宮城での三年の経験も、そのようなものであって、彼を徐々に内的に変容させる年月だったと考えられないだろうか。「鯛やヒラメの舞い踊る」単なる享楽の年月だったのではないと。
三年の間内的に変容していった彼は、彼自身の表面的な自覚としては、その変容に気づくことはなかった。そして竜宮での期間を経て、地上に戻ってきた彼は、自分が以前とは全く別物になってしまっていることに、やがて気づく。その気づきが、彼にもはや自分が若者ではなく、また元の環境に戻ることもできない老人となっていることを発見させた。そのように解釈できるのではないだろうか。
このように考えると、竜宮城における浦島の経験は、単に「鯛やヒラメの舞い踊る」享楽の日々というわけではなく、精神の変容を実現する、日常とは異なる経験だったのではないだろうか。そして、それを経て浦島は、成熟した老賢者に変容した。そのように考えることができるのかもしれない。
この、竜宮における精神変容の経験は、ユング心理学では「夜の海の航海」といわれるものかもしれない。ユングの「夜の海の航海」というのは、いわゆる「中年の危機」において心が経験する出来事を象徴するもので、「ユング心理学における『中年の危機』は、約40代前後(人生の正午)に訪れる、これまでの価値観や人生目標が通用しなくなる心理的転機です。外的な成功(キャリア、家庭)を追求する人生前半から、内面的な成長(自己実現)へシフトする過程で、焦燥感や空虚感に襲われる不可欠な統合のプロセスとされます」、そしてそれは「『個性化」のプロセス(であって) 真の自分を取り戻し、全体的な人間へと成長するための『第二の誕生』に向けた試練」であるとされる。
浦島の竜宮城経験がそういうものだったとすれば、それは、仏教において、龍樹菩薩が海底の竜宮城で華厳経を発見したとされる伝説に通じているのかもしれない。この伝説は、華厳経が地上では成し遂げられない稀有の思想的発見であり、その竜宮城における華厳経の発見というのは、おそらく深い禅定を意味しているのだろう。
ともあれ、浦島の竜宮経験がそのように考えられるとすれば、地上に戻ってからの彼の変容は、単に、それまで隠されていた時間の経過が一挙に巻き戻って、たちまち「太郎はおじいさん」になったというだけではないと考えられる。それは、竜宮において彼が経験したことの結果、彼が単なる若者から、老賢者に成熟したことを意味するということだ。浦島太郎の物語は、このように考えると、つじつまの合わない昔話ではなく、また英雄の婚姻譚でもなく、人が若者から老成した賢者になっていく過程を語った物語だということになる。
このように考えると、浦島が最後に乙姫と結婚して蓬莱島に暮らすようになったという別伝の物語は、浦島が最後に老人となったという出来事の意味を解き明かす役割を持っているとも考えられる。つまり、それは悲劇ではなく、この上ないハッピーエンドなのだということを伝える付け加えだと言える。