山上の説教について

   2026年9月20日教会学校での話

 

   三森至樹

 

 今日は山上の説教について話してみます。山上の説教というのは、マタイによる福音書の5章から7章までで、イエスの説教をまとめて述べてあるところです。それは、弟子たちと一緒に、ある山の上にのぼり、そこで語られたイエスの言葉で、主に弟子たちに向けて話されたものです。

 そこにはよく知られている、有名な言葉がいくつもあります。例えば、敵を愛しなさいとか、自分に対して何かを求めている者には何も拒否せず、なんでも言われた以上のものを与えなさいとか、右の頬を打つ者には、左の頬までも差し出しなさいとかいうものであって、普通の道徳以上の道徳が求められているように思われます。一言で言えば浮世離れした、非常識な教えです。ちょっと見にはそう思われます。

 以前水木しげるの漫画「墓場鬼太郎」を読んでいて、噴き出したことがあります。それは、偽鬼太郎が悪事がばれて本当の鬼太郎にとっちめられて、頬を叩かれたのですが、偽鬼太郎はやり返さずに、反対側の頬を鬼太郎に差し出し、「俺、こんなに反省して、修養してるんだ」と言います。これはもちろん、「右の頬を叩かれたら、左の頬まで差し出せ」というイエスの言葉をそのまま実行して、修養している証拠としたのです。そういうギャグにまで、山上の説教は使われているということです。

 それはともかく、山上の説教はそれほど極端な道徳の教えであって、文字通りには実行できないということを世の中の人はみんな分かっているのです。

 それで、ルターは、イエス様はなぜこんな、文字通りには実行できないような教えを説いているのかと考えました。ルターは若いころまじめな修道士だったころには、そのイエスの教えを文字通りにやろうとして、できないということが骨身に沁みてわかっていました。

 そこでルターが考えたのは、山上の説教は、イエス様の命令通りにして、そのことで自分は正しいことのできる正しい人間だということに安心するためのものではないということでした。そうではなく、それができないことに直面して、何か良いことをすることで自分を肯定する道がないということを認め、自分を肯定するためには、そうできない自分を赦し、受け入れてくれる神の、無条件の愛を認め、その愛により頼むしかないことを信ずるようになる、そのことが大事だということでした。つまり、山上の説教は、信仰に導くための厳しい律法として、信仰への手段として働くのだということです。そのことを、ルターは発見したのです。

 山上の説教は文字通りにやろうとしても、それは実行不可能です。とすれば、イエスがこの教えを説かれたのは、実行を強制するためというよりは、人間にその不可能を悟らせるためだと考えられます。

 人間は、理想的には行わなければならないことを認めながらも、行うことのできない、そんな罪にまとわりつかれている存在です。それゆえ神によって正しいと認められ、自己を肯定することができるためには、自らの行いに頼るのをあきらめ、別の道を求める以外にはなくなります。そのとき、正しいことのできない罪人であるわたしたちを、無条件に受け入れ、正しいと認めてくれる愛の神に信頼する以外にないということが分かります。

 つまり山上の説教は、そのためのいわば方便であって、人間に罪を悟らせ、神の愛と赦しを信ずる、信仰に導くためのものだというのです。このように、イエスが説いた山上の説教は、人間に罪の自覚をもたらすための、方便としての律法と考えられます。

 しかし、山上の説教を信仰に導くものとしてだけではなく、信仰における自覚の表現としても理解できるように思います。つまり、山上の説教は、信仰における私たちのあり方、信仰によって自由にされたその私たちの自由について表現しているのだというふうに、考えることもできます。

 山上の説教で述べられたことを一言で要約すると、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」ということでしょう。

 イエス様は「あなたがたも完全な者となりなさい」と言われます。しかし、どうやって完全な者となれるのでしょうか。

 私たちが何か良いことを自分自身の力でなしとげて、それでこの世界が完全なものになるのだとしたら、それは神様が何かご自分の中に不完全なものを残しているということになりはしないでしょうか。

 そうではなく、私たちが完全な者となる、あるいは神様から見て完全な者となるのは、私たちが神のもとで完全に支配されているということを、私たちが受け入れることによってだけではないでしょうか。神様から離れて、独立して、何かを成し遂げて、それで世界が完全なものとなるというのではないでしょう。    もともと完全でおられる神のもとで、その支配をただ受け入れることによって、私たちはその信仰によって、神様から完全な者と認められ、またそのもとで完全な者とされていく、そういうことではないかと思います。そのときには、私たちは何も自分の力でなしとげる必要はありません。完全と認められ、完全にされていくものにとって、何かを自分の力で付け加える必要はありません。何かをして自分を正しいものとしようとする必要はありません。なぜなら、元から、私たちは神様の支配のもとで、正しいとされているからです。私たちに必要なのは、その事実を認め、受け入れ、それに基づいて自由に生きていくことだけです。そのときには、もうあれこれと良し悪しを考えたり、ためらったりする必要はなく、何をしてもよいのだという自由の中で活動していくことができます。

 私たちといつもともにいてくださる神様の完全な支配のもとで、それを信じて完全に自由に生きるときに、そうでなかったとき違う風景が見えてくるでしょう。その信仰のもとで現れてくる新しい風景を、山上の説教は表現しているのだと考えることができると思います。

 例えば、山上の説教の中の一節に、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というのがあります。これは、悪人に手向かうな、その言いなりになりなさいということではないと思います。こちらが弱いから、力の強い相手に逆らわず、自分を守るために相手の言いなりになるほうがいいということではないと思います。

 全く逆です。こちらが弱いから手向かわないのではなく、たたかれても何も傷つくことはないからです。相手と同じ立場にたって、こちらがたたかれれば傷つき、損害を受けることはないということが分かっているから、たたき返す必要がないからです。神に護られているので、傷つくように見えても、そのことで何も減るものはなく、むしろそのことをきっかけとして、相手と違う関係を開くきっかけとなるのだということが、信じられているから、通常にたたき返すという反応ではなく、それとは違う対応が、自然と無理なく出てくるということだろうと思います。

 つまり、神を信ずるものは無敵なのです。何があっても、こちらが損害を受けるとか、減るということはないのです。その無敵の立場から、自分の損害を考えることなく、自分とかかわるものに必要な応答をすることができます。必要ならば、反対側の頬を差し出すこともあるだろうし、相手を叩き潰す行動に出ることもあるでしょう。何事もなかったように、受け流すこともあるかもしれません。大事なのは、神の愛の支配によって護られ、導かれているという自覚であり、そこから自然な応答が現れ、本来の愛の働きが現れてくるということです。そこに働くのは、神に護られていることからくる無敵の自覚です。

 これを一言で言うなら、ルターの言う「キリスト者の自由」ということです。ルターが短く言い表しているように、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない(信仰によって、神の前で完全に自由である)。と同時に、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する(愛によって、進んで隣人に仕える)」ということです。それが、信仰に基づく自由が開いていく新しい風景ということです。