キリストの平和

  2026年7月12日教会学校での話

 

   三森至樹

 

 先週の主日礼拝で読まれた中で、気になるところがありました。それは、エフェソの信徒への手紙6章10節から12節でした。それを読んで、ちょっと考えたことから始めたいと思います。それは次のところです。

 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。(エフェソの信徒への手紙6:10-12)

 つまり、キリスト教が敵として戦っているのは、人間ではなく、悪魔なのだというのです。

 しかし、悪魔と言っても、それは漫画とかテレビとかで見るよな、怖い強力なラスボスのようなものではありません。そんな、目で見て分かるような悪魔というのは、日常普通に、町の通りとかで見たことのある人はいないと思います。町の中で見るかもしれないのは、クマでしょう。でも、そんなのも普通にはめったに現れることはないです。

 ここで言っている悪魔とか、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊とかと言っているのは、実は、私たち人間の心の中にいる悪魔、つまり私たちを支配している罪のことなのだと思います。

それは、目には見えないが、常に働いている心の力で、私たちはそれを自由にはできないで、常に翻弄されています。それは今の言葉で言えば、無意識の深層心理というものです。それは、だれもが抱えている問題です。それは我々が自由にはできないもので、この無意識の心の力には、人間の頭で考えた解決法とか、決意とかでは対抗できません。

 例えば、ニュースとかで児童虐待の話をよく聞くと思います。普通の親なら、自分の子供を大事に育てるはずのところ、その逆に自分の子供を虐待する親がいます。それでニュースになったりもするのですが、その異常なことを行う人間のことをよく調べてみると、その虐待している人間自身が、子供の時に親から虐待されていたという例がたくさんあるようです。つまり、児童虐待が、親から子へ遺伝されているかのような例があるのです。そういう自分の子供に対する虐待が、親から子へ遺伝されているように見えるのは、悪い習慣が人々の間で共有され、伝えられて、はびこっているからだというように説明できると思います。人間の奥底の深層心理に根差す悪い習慣は、どっかで断ち切らないかぎり、繰り返し発動し、人々の間で、何世代にもわたって繰り返されるもののように思われます。

それは家族の間で起こる例ですが、同じようなことは、一つの民族、一つの国の間でも起こるといえます。虐待された者が、逆に今度は虐待する者となるという例です。ここ何年かイスラエルとガザのパレスチナの人たちの間で起こっているひどいことは、世界中の人々が関心を持っていることです。

しかし、もともとイスラエルというのは、ヨーロッパのユダヤ人たちが中心になって造った国です。彼らユダヤ人は、長いことヨーロッパで迫害されていて、第二次世界大戦においては、ナチスの支配するドイツにおいて、ひどい目にあって、何百万人も殺されています。それで、そういう悲惨な目にもう会うことがないように、ヨーロッパから離れて今のパレスチナの地に、新しくイスラエルという国を作ったのです。

しかしそのイスラエルにおいて起こっているのは、皮肉なことに、自分たちが受けたのと同じようなことを、今度は弱い立場のパレスチナ人に対して行っているということです。因果は巡るというか、虐殺された者たちが今度は虐殺するようになるということが起こっています。虐殺の記憶が人々の間で隠れた形で働き、遺伝的に働いているように見えます。

 このように罪の力というものは、なかなか強力なもので、人間の理性とか意志の力では解決できないように思えます。パウロは、このような罪に支配され、それから逃れることができない我々の悲惨について、ローマの信徒への手紙の中で述べています。ローマの信徒への手紙7章14節から25節で、パウロはこう言っています。

 

「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマの信徒への手紙7:14-25)

 

 このように、私たちが自分自身を見るときには、自分自身のどうしようもなさに絶望するしかなくなります。しかし、その時同時に、そんな私たちをそのままに赦し、受け入れていてくださるイエス様の存在に気づかされます。その存在に気づくときには、私たちは無条件に、罪のままで、そのままに自分自身を肯定することができます。

キリストが私たちと共にいてくれることに気づくときには、私たちは私たちがそのままに、受け入れられていることを受け入れ、焦ることも、後悔することもなく、安らぎの中に落ち着くことができます。

そこで、パウロとともに、そのままにキリストに感謝できるようになります。そこに何か良いことをしなければならないとか、もっと良い人間にならなければならないとかいう条件はありません。何も努力することもなく、何も変わることもなく、そのままに自分自身を受け入れることができます。キリストは、私たちを無条件に赦し、受け入れ、ともに歩まれる神だからです。

キリストを信ずるときには、このような全く足りない自分をそのままに受け入れることができるようになり,私たちは何があっても、揺るぐことのない平和のうちに憩うことができます。

キリストは十字架にかかる前に弟子たちに、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言われました。そのことを受け入れ、信ずことができるときには、何の条件もなしに、無条件に、キリストが与える平和を私たちも得ることができます。その時、私たちは、失われることのない平和の裡に安らうことができます。

 

今日の話をまとめてみます。人間を支配する無意識の罪の力には、人間の頭で考えた解決法とか、決意とかでは対抗できません。エフェソの言う神の武具とは、人間の努力による何らかの「計らい」ではないと思います。そうではなく、それらに頼ることなく、全能の愛なる神、どんな時でも我々とともにいて、我々を赦し、受け入れ、護り導かれるともなる神、キリストに信頼して、あれこれ思いなすことをやめて、何をしても大丈夫だという安心の中で、自由に動いていくことが必要なのです。つまり、愛なる神、ともなる神、キリストを信ずる信仰こそ、我々が携えるべき神の武具です。なぜなら、この世のすべての脅かしに打ち勝つ力である神、キリストは、私たちを無条件に赦し、受け入れ、ともに歩んで護り導かれる愛の神であって、その神のもとにある私たちは、何も恐れることなく、心配することもなく、勇気をもって、自由に、平和の裡に進むことができるからです。