善いサマリア人のたとえ
2026年8月23日の教会学校での話
今日は例の「善いサマリア人のたとえ」について考えてみたいと思います。それは、ルカによる福音書の10章25節から37節です。読んでみます。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
こういう話です。ある時律法学者がイエスに近づいてきて、質問します。「何をしたら、神から正しいと認められて、永遠の命を得ることができますか。何をしたら救われますか」と聞きます。イエスはそれには直接答えず、逆に質問します。あなたはどう思うか、聖書には何と書いてあるかと。律法学者は答えます。「神を熱心に愛することと、もう一つは、隣人を自分自身のように愛することです。」イエスは「それは正しい、その通りにすれば、命が得られる」と。
しかし、律法学者は、聖書で一番大事なことは何かということは、勉強して分かっていたのですが、ではそれをどう実行したらよいのかは分かりませんでした。それで、イエスにこう質問します。「では、私の隣人とは誰ですか」と。
それに対してイエスが話されたのが、善いサマリア人のたとえです。
ある人が強盗に襲われて、死にかけていた。ユダヤ人の祭司やレビ人は近くを通りかかったのに、道に倒れているその人を見ないふりをして通り過ぎた。しかし、あるサマリア人は、旅をする商人だと思いますが、この倒れている人を見ると、近寄ってきて介抱してあげた。そして、宿屋まで連れて行って、ベッドに横たえた。そして、用事があって、離れていかなければならなかったので、宿屋の人にお金を渡して面倒を見てもらうようにした。さて、この三人の人の内、だれがけが人の隣人となったと言えるかと、イエスは律法学者に尋ねます。当然答えは、「その困っている人を助けた人です」となります。そこでイエスは「あなたも同じようにしなさい」と言われます。そういう話です。
この話で気になる点をいくつかあげます。一つは、律法学者は「私にとって隣人とは誰ですか」と聞いたのに対して、イエスは「誰がその困っている人の隣人としてふるまったか」と言われた点です。つまり、律法学者は自分を中心として、自分にとって、自分に役に立つ隣人は誰かと言っているのに対して、イエスは、困っていて、誰か隣人として助けを必要としている人がまず先にいて、その人にとって隣人となるのはだれかと、他者中心、隣人中心の立場で話をしている点です。
ということは、この律法学者にとって、本当の隣人は決して現れることはないわけです。彼にとって現れるのは、自分に利用できる都合の良い人間だけであって、その隣人を中心としてその人にとって本当に必要なことは何かということは、最初から考えられないからです。「私の隣人とは誰か」と探し回っても、本当の隣人は現れません。というのは、彼にとって関心があるのは、隣人の救いではなく、自分にとっての自分の救いだけで、隣人を助けるというのはその目的に利用するためだからです。彼にとって隣人は、本質的にはどうでもいいのです。問いをする立場そのものが、最初から間違っているのです。
もう一つの点は、このサマリア人がけがをしている人を見て、「憐れに思って」彼を助けたという点です。それに比べると、助けに行かなかった二人のユダヤ人、祭司とレビ人は、そのけが人を見ても何も感じなかったのでしょう。それはなぜでしょうか。
たぶんそれは、彼らは自分を助けることだけにかかりきりになっていたからではないかと思います。それは律法学者と同じく、自分は何をすれば神に認められるか、神の国を手に入れるにはどうすればよいかばかりを考えていたからではないでしょうか。つまり、あのけが人を見ても、その痛みを感じないほどに律法に縛られ、神に認められて、義とされることばかりを求めていたから、それに関係ないようなことは、たとえ人がけがをして苦しんでいるにしても、目に入らなかっということではないかと思います。律法学者が言っていたように、彼らが関心があるのは、「この私が」神の国を手に入れられるかどうかで、それ以外のことは自分たちには関係ないと思えたのでしょう。
ということは、隣人とかかわることができるためには、まず自分が救われていなければなりません。自分の救いについては完全に安心できなければならないのです。自分はまだ救われていない、救われるためにはまだ何か良いことをしなければならないと思っている限り、自分以外の他者に関心を向けることはできません。そこで、自分が救われるためには神を愛しなければならない、隣人を愛しなければならないと知っていたにしても、その隣人とは私にとって誰か、自分が自分の救いのために利用できる隣人とは誰かを考え始めることになり、結局隣人そのものには出会うことができなくなる。そういうことではないでしょうか。
結局、「隣人を自分自身と同じように愛する」ためには、信仰がなければならないということです。自分自身が関心の対象となり、救われることを必要とすると感じている限り、自分以外の他者に関心が向かうことはなくなります。すると、自分の救いのために何をするべきかとばかり考えるようになり、隣人を自分と同じように愛することなどできなくなります。逆に、自分がすでに救われていて、何も不足はなく満たされていると確信できて初めて、つまり信仰が確立されてはじめて、他者に目が行き、他者が本当に必要としているものに気が付いて、愛がそのとき実現することになります。このように、隣人への愛は、信仰から流れ出てくるものです。それ以外には、本当の隣人愛はあり得ません。
不信仰においては、赦しの欠乏を自覚することから、律法の行いによって自分を満たそうとするようになりますが、そこにはどこまで行っても満足にも安心にも達することはありません。ましてそこには本当の愛はありません。
逆に、信仰においては、赦しの充満から、本来の、つまり自分を無にした愛の行いが出てきます。互いに愛し合いなさいという命令は、信仰において初めて満足されるものとなります。このように信仰において初めて、赦しの充満から愛が社会的に現実的なものとなります
まとめてみると、自発的な憐れみが、人を愛の行為へと動き出させるのですが、その自然な愛を生み出すのは、信仰であり、信仰こそ愛を生み出す母体です。信仰によって自己へのとらわれから解き放たれてはじめて、満足と安心の内に満たされて、本来の自発的な愛が働きだします。不信仰は自己へのとらわれから離れられないために、本当の愛を生み出すことはありません。だからまず求めるべきなのは、愛の命令ではなく、その命令を自然の内に実現する信仰です。信仰が愛を生み出すのであって、その逆ではありません。あの善いサマリア人は、愛の人である以前に、信仰の人だったと言わなければなりません。