信仰と本来の生とは不可分
三森至樹
私の今現在の考えを短くまとめてみた。短く端的なだけに分かりにくいかもしれないが。
厳密に言って、存在していると言えるのは、そのつどそのつどの今、現れては消えていく流れゆく映像と、それに伴う様々な感覚と感情、そこに伴ってくる感情だけではないだろうか。つまり存在しているのは、何の根拠も理由もなく、漂うように現れてくる幻影だけで、それ以外には何も存在しない。そうだとすれば、苦しみの多いこの世界を否認して、一刻も早くこの世の夢から去るべきだということになる。
そうではないとすれば、キリストなる神を信ずる以外にはない。それ以外のあらゆる根拠は否定されるのだから。この人工的な仮設としか見えない信仰が、我々にとって必要なのは、それ以外には我々の生を本当に生き生きとスムーズに生きさせる方法がないからだ。独我論はいざそれを生きようとすれば、ごつごつと至るところでぶつかることの多い、荊棘に満ちた生をもたらさざるを得ない。その反対に、この世界の実在を肯定する信仰に立てば、生は生きるに足るものとなり、本来の生と思える生を生きることができるだろう。
ということは、この世界において実在すると考えられている事柄も、本来的な生を妨げるとげをもたらすものだとすれば、その存在を否認しなければならない。その一つは、我々自身の死という観念だ。神を信ずる者は、そういうわけで、我々自身の死を信ずることなく、復活を信じ、その希望の上で楽しく生きることができる。
信仰と本来の生き生きとした生とは不可分だ。それに反するものは、たとえもっともらしく見えるものでも、否認されなければならない。