枯れた桜の木(3)

   三森至樹                                                       

 魯迅の「故郷」という作品は、今はどの中学国語の教科書でも取り上げられている。だからこの作品はたいていの人が読んだことがあると思う。
 この「故郷」という作品は、作者の魯迅と思しき主人公が、久しぶりに故郷の実家に帰省するところから始まる。
 彼の家はもともとは裕福で、その地方の有力者の家柄だった。しかし、主人公が家の当主となったその当時は、すでに家運が傾いていた。
 主人公が久しぶりに故郷に帰ってきたのは、その長いこと住み慣れた古い実家と最終的に決別するためだった。彼の一家は、その実家の家屋敷を他人に譲り渡し、家財の一切も処分して、その土地から離れなければならなかった。そのために彼は、やむをえず、懐かしい故郷に帰ってきたのだった。つまり今度の故郷訪問は、彼にとっての最後の訪問で、二度と帰ることのない帰郷の旅だった。
 そのようにして故郷の家に帰って来た彼を、町の人々がおおぜい出迎えた。というのも、彼はその町では名士でもあり、また今度彼がその家を引き払って、遠くに去るということで、家にあったもの一切を人々に譲りわたすことになっていたからだ。
 家にやってきた中には、ヤンおばさんもいた。彼女は若い時には、美人で評判だった人で、家が豆腐屋をやっていたので豆腐屋小町として有名だった。彼女も主人公の家に、掘り出し物はないかと駆けつけてきたのだった。
 その主人公は、母が彼の友達のルントウもやってくることになっていると告げたとき、たちまち彼の心に昔の、幼いときの記憶がよみがえってきた。
 「ルントウ」というなつかしい名前を耳にすると、突然主人公の脳裏に不思議な場面が浮かんでくる。金色の満月の下、見渡す限りの海辺の砂地にスイカが植えられていて、その真ん中に少年が刺叉(さすまた)を手に立っている。少年はきれいな銀の首輪を身に着けている。その首輪が、月の光にきらめいている。少年は一匹の「チャー」を突こうとするが、「チャー」は身をかわして逃げてしまう。その少年が、主人公の記憶にあるルントウだった。
 主人公がルントウにあって一緒に過ごしたのは、十二、三才の夏休み、数週間だけだったが、彼の記憶には鮮明に残っていた。それは彼にとっては輝かしい、大事な記憶だった。
 その主人公の下に、三十年後のルントウが現れる。彼は、昔の少年時代とは打って変わって、見る影もない、貧相な農夫の姿となっていた。瘦せていて、皮膚もしわしわで、海風に吹きさらされて、茶色く黒ずんでいた。この貧相な老人然としたルントウの姿に、主人公は戸惑いながらも、それでも懐かしさに胸がいっぱいになって、昔と同じように声をかける。続いていろいろな思い出があとからあとから、口から出かかるが、しかし、何かでせき止められたように、思いは頭の中をかけめぐるだけで、口からは出なかった。
 ルントウの顔にも喜びと寂しさの色が現れて何かを言おうとするが、やはり声にはならず、最後に彼はうやうやしい態度に変わってこう言った、「だんな様!…」主人公は、この言葉に身震いを感じる。そして、二人の間にもはや身分差が立ちはだかっていて、それが壁となっているのに愕然とする。
 やがてルントウは、主人公が分け与えたものを携えて村に帰っていく。そのルントウが持ち帰ろうとしたものの中に、主人公が知らない、貴重な品々が隠してあった。それを、ヤンおばさんが発見して得意そうに吹聴する。ルントウが、自分の親しい者を裏切って、盗みのようなことまでする人間になってしまったことが、主人公を悲しませる。
 最後に主人公は、故郷の家を引き払って、今住んでいるところに帰っていくが、その途中の船の中で、今度の自分の経験について振り返る。彼はこのように考える。
 「(今度の帰郷で)あの西瓜畑の上に銀の頸輪をしていた小英雄の面影は私には十分はっきりしたものであったのに、今になっては急にぼんやりしたものになってしまった。これがまた私を非常に悲しくさせる。
 …古家は私からだんだん遠ざかって行ってしまう。故郷の山水もみな少しづつ私から遠退いてしまう。それだのに自分はそれをさえさほどに名残惜しいとも思わない。私はただ自分のぐるりを取囲んでいる目に見えぬ高い墻、それが自分をひとりぽっちにしていることに気づいてそれが少なからず私を悶えさせる。」(佐藤春夫訳)
  魯迅は、この「故郷」という作品で、自分の故郷についての幻滅と、それをもたらすその当時の社会についての批判と、それにも関わらず、それらの問題を乗り越えてくれるであろう、未来の世代への、かすかかもしれないが希望について語っている。
 しかしわたしにとって印象的だったのは、ルントウの姿だ。主人公の記憶の中にあった、少年時代のルントウの輝かしい姿が、彼の目の前に現れたルントウの今現在のあわれな姿によって打ち壊され、幻滅を味わわされてしまうという点だ。それは、今話題にしている枯れた桜の木についても共通していることだと思う。
 春花やかに花を咲かせている桜の木のそばに、もはや死んでしまって、黒ずんで立ちつくしている枯れた桜の木が並んで立っている。その対比が、生きるものの悲哀を感じさせるが、それは「故郷」のルントウの姿にも共通しているように思ったのだ。