枯れた桜の木(4)
三森至樹
さて、そんなルントウのような人間は、彼だけに限ったことではなく、どの時代にもたくさんいる。幼かったとき、あるいは青春の盛りのときには、美しくすばらしい子供だったのに、年が行くにつれて凡庸な人間に堕ちていく、あるいはさらにそれを越えて、醜く、性格的にも歪んだ人間になってしまうという例は、異常なことでもなく、普通のことだ。ことわざに良く「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」と言うが、ただの人以下になってしまう例も多い。わたしも、そういう例を知っている。そしてそういう例に接すると、われわれは、残念だ、それ以外のやりようはなかったのだろうかという気持ちにもなる。
しかし、おそらく、それ以外の在りようはなかったのだということなのだろう。
われわれは自分自身の現状について反省するとき、たいていの場合不満を感じ、自責の思いを持つのではないだろうか。もっと努力すればよかったのに、それをせずに、そのときそのときに常に安易な方向に流されてしまって、のんべんだらりと時を無駄に使っていた。その結果が今のだらしない現状だ、と。
中には自分自身について自分を誇り、自分は営々と努力を重ねてきた、今はその結果として今の満足すべき状態にあると、そのように思っている人もあるかもしれない。そのような人については何をか言わんやだ。ただはっきりしているのは、そのような人はごく少数であって、大多数の人は自分の過去の努力について非常な不満と、後悔の念を抱いているということだ。
しかし、考えてみれば、そういう不満と後悔の念を持つということは、そうではないような自分にもなれたかもしれないという前提があってのことだろう。人間には、違う自分になりうるという可能性があり、それへと努力する自由意志があると考えるからこそ、そうできなかった自分に対する反省と後悔があるわけだろう。果たしてそういう、違う自分になりうるという可能性があるのだろうか。それへと努力する自由があるだろうか。
そうではなく、人間には違う者にもなりうるという可能性はほとんどないのだというのが現実ではないだろうか。より良い善を選択する力も、より良い自分を自分で造り上げていくという自由意志も、本当はほとんどないというのが、人間が置かれている現実ではないだろうか。
古来、本当に良くなろう、自分の運命を自分の力で変えたいと真剣に努力した人で、その方向の努力に挫折した宗教家たちは、自分を拘束する運命の力あるいは宿業、または原罪というものの現実存在にぶち当たったのだった。彼らは自分で自分を変える、良くしていこうとする力が自分にはない、あるいはその力、自由意志の力が自分には極めて限られているという現実、すべては自分を超えた力によって支配されており、ものごとはなるべくしてなっていくのだという現実を認めたのだった。
たとえばパウロは、人類の始祖のアダムから連綿として受け継がれてきた原罪の存在を言い、自分で自分を良い者としていくことのできる者、つまり義人は一人もいないと言った。彼は、人間はたとえ良いことを良いこととして認めることができたとしても、それを実際に行うことはできないと、それが人間の現実だと述べている。
また親鸞は、歎異抄の中で、「なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし(何事であっても自分の思い通りなるものならば、極楽往生のために人を千人殺せと言われたら、その通りに殺すだろう。だがたいていの場合そうはできない。それは、そうするべき宿業の縁がないから殺すことができないだけだ。必ずしもその人の心が良くて殺さないというわけではない。また人を害するまいと思っても、心ならずも百人・千人と殺してしまうことだってあるのだ)」と言っている。
また親鸞は、人間の行いについて、まとめとして次のようにも言っている。「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、兎毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべしと候ひき(人間に良い心が起こるのも、積もり積もった宿善がそのようにさせるのだ。また悪事をしようという思いが抱かれるのも、悪業がそのように計らっているのだ。親鸞聖人が仰せられるには、兎の毛や羊の毛の先にあるほどの小さな罪でも、それを作るのは宿業でないというものはないと知るべきだ」ということだった)」
そのように、人間の行いは人間の決意によるのではなく、そのようにさせる宿業によって決定されているのだとしたら、そこには自己決定の責任はないということになる。全てはそのようになるように定められていたのだとしたら、それ以外の在りようもあったかもしれないという悔いはないことになる。
だとすれば、例えば死刑になるような悪事を犯してしまったとしても、それはそのようにしてしまう運命のせいであって、それをしてしまった責任は自分にはないことになる。もちろん、だからと言って死刑をまぬかれるはずもないのだが。その場合、死刑もまた自分に定められた運命のなすところであって、従容としてその運命を受け容れる以外にはないということになる。違いは、だから、自分のしてしまったことについて後悔はないという点にある。
逆に、自分の成し遂げたことがどれほど偉大であって、人々から称賛され、尊敬されたとしても、そのことで自分を誇ったり、おごり高ぶったりすることもないだろう。それは自分が自分の決意や意志によって成し遂げたことではなく、そのような役割を自分が与えられていて、自分を通して実現された「宿善」の功績であると、自分がほめられるべき偉大さを自分で成し遂げたわけではないと、そのように謙虚でありうることになる。
このようにすべては自分を通して実現される業、つまり阿頼耶識の働きであって、全てはなるべくしてなるもので、自分の決意や意志によって左右されることがほとんどないとすれば、自分の人生について埒もない後悔をしたり、理由もないおごり高ぶりに陥ったりすることもないだろう。すべては定まった通りに、成るべくして成るのだ。
このように考えると、人は自分の人生について、思惑や意志のない桜の木が、春になると自然に桜の花を咲かせ、冬になると葉を落とし、やがて時が来ると枯れ木となり朽ち果てるように、そのような自然の成り行きとして受け入れることができるかもしれない。そこには、自分の成し遂げてきたことについての誤った誇りも、みじめな人生の終わりについての悔いもない。ただありうるのは、ありのままに自分を受け容れることだけだ。
しかし、そのような諦念だけが最後の結論ではないとも思う。
春、若さに任せて、自分の花の姿を誇らしく、人々に示していた桜の木も、やがて時が過ぎて、冬、老いさらばえたみじめな姿を、路傍に曝している。その桜は、自分の在りようを残念だとも、それ以外の在りようもあるいはあったかもしれないと思ったりもし、後悔に臍を噛むのかもしれない。あるいはすべてはあるべくしてあったのだと、自分を諦めの内に受け容れるのかもしれない。
しかし、一時ではあれ、桜は、春の素晴らしい花の姿を自分の身にまとったのだった。それは自分の功績によって成し遂げた努力のたまものというわけではなく、天が与えた賜物として自然に実現したのだった。その天は、時に関わることなく、また与えられるものの良し悪しに関わらず、たえず恩恵を与える者だとしたら、今は惨めな、枯れきった桜の木もまた、いつかは、花の桜として復活することもあるだろう。
だから、天のあわれみ深い力を信ずるわれわれは、枯れた桜の今の姿を、諦めをもって憐れむのではなく、盛大な花の桜として復活する未来を、希望をもって想像することができるのだ。