枯れた桜の木(2)

   三森至樹

 桜の木とかその他の草花などの植物は、自分の生きる場所とか行動を自分で決めることはできない。彼らはたまたまその実とか種とかが落ちた場所に芽を出して育ち、生涯そこで暮らすことになる。彼らは普通は自分の存在とか在りようを自分で決めることはできない。だから、自分の在りようとか運命について、責任を問われることはない。
 しかしその点、人間は違う。彼は生まれた場所とか環境についてこそ自分で決めることはできないとはいえ、そこからどう育ち、成長し、どう生きるかを自分で決めることはできる。どう考え感じ、行動を決定していくことによって、自らを決定していくことができる。だから彼には、自分自身の在り方と、自分自身の運命については、その善し悪しを問われる。自分の在り方と行動の仕方を自分で決めることができるので、その運命については責任が問われることになる。彼らは自分で蒔いた種について、その結果を問われる。そこに人間の道徳の問題が現れてくる。責任のないところには、道徳的な善し悪しについて問うようなことはない。人間に自由があるから、その行動の良し悪し、その決定の善悪が問われ、彼の人間性の在りようと責任が問われることになる。そこに人間の悔恨が生じてくる。あのときああすればよかったのにという悔いが生まれる。悔いるのは人間だけだ。

 わたしがあの公園で見たのは、二つの対照的な桜の姿だった。一方に、春に咲き誇る、にぎやかで花やかな青春の桜があり、他方に、もうすでに年老いて死に絶えた、老残の桜があった。その対照がわたしに、生きるものの姿を深く感じさせた。
 桜はあるときに生い育ち、花やかな春の盛りを誇り、そしてやがて老いて、無残な灰色の最期を迎える。この対照が生きるものの姿を端的に示していたのだ。そこにわたしは強い印象を受けたわけだ。
 それは植物の話だが、植物自身には何の感慨もないのだろう。そこから感銘を受けるのは、われわれがそこにわれわれ自身の姿を投影するからなのだ。われわれ人間は、幼いとき、あるいは若い時には、若さが自然に与えてくれる美しさ、花やかさを何の気なしに享楽し、楽しみ、それを惜しげもなく消費する。そしてやがて時は過ぎ、苦い、忍従の老年を迎えることになる。
 しかし、全ての人がそのように、無残で苦しい老年を迎えるわけでもなく、ある人々は、若い時からの忍苦を積み重ねて、素晴らしく充実した老年期を迎える場合もある。そこには、それぞれに天から与えられた運命と、それぞれの熟慮と努力の経験の積み重ねによって、大変な違いが生まれてくる。
 しかし、多くの場合、年を取ることは、寂しく、悔いの多いものになる。 あの、枯れきって、花の咲かない桜の木のように。そしてわたしには、その違いその善し悪しはそんなに大きなものではないかもしれないとも思う。また、充実した老年期というものがあったとしても、それはそれぞれの努力によってではなく、気まぐれな運命のもたらす僥倖に過ぎないとも思える。 
 楽しく花やかな青春のときをうかうかと過ごし、やがて、もはや花も実も付けない、寂しい老年の運命を受け容れさせられるというのが、われわれ多くの人間の姿ではないか。あの公園の桜が語っているように。それがたいていの人間の姿だから、わたしに深い印象をもたらしたのだろう。
 この人間の運命を印象的に表す物語の一つとして、他にもありうるかもしれないが、魯迅の「故郷」という作品のことを考えてみたい。