信仰によって聖霊を受ける
    2026/6/18の教会学校での話
   三森至樹
 教会ではよく聖霊のことが話に上がります。しかし、私は、聖霊という言葉を聞くと、なんだかもやもやとして、聖霊とは一体何だろうという気がして、よく分からないという気になります。そんな気持ちになる人もいるのではないかと思います。そこで聖霊について少し考えてみたいとおもいます。
 一つにはイメージというものがあると思います。神様というと、白髭のおじいさんというイメージがありますし、イエス・キリストというと、長髪でひげを生やした、外国人の青年を思い浮かべます。しかし、聖霊はというと、決まったイメージがなくて、どんなものかという形を思い浮かべられる人はいないんじゃないかと思います。たしかに、聖霊は風のようなもので、どこからきてどこへいくのかだれも知らないと言われていますし、聖霊の語源は、風というのです。ますますイメージがわかないということでしょう。
 昔わたしがルーテル神学大学の学生だったころ、友達がいて、彼はクリスチャンになって間もない人で、聖霊を米偏の精霊と書いて、からかわれるということがありました。あれは「しょうりょう」と読むので、仏教の言葉だと。「しょうりょう」なら、生きとし生けるもの、あらゆる生き物の魂のことです。聖霊は、キリスト教だけが使う言葉で、それは生き物の魂という意味ではありません。
 じゃあそういうイメージのつかない、はっきりしないものだから、聖霊なんか存在しないのかというと、そんなことはないです。昭島教会も含めて、世界中の教会を造り、導いているのは聖霊の働きで、教会があるということで、聖霊が具体的に働いていることが分かります。だから、聖霊のイメージは一種の幽霊のようなものでも、妖精のようなものでもなく、聖霊ということでは教会の姿を思い浮かべるのが正解かもしれません。
 では聖霊とは何でしょうか。聖霊を受けるとは、信仰によって人の心の在り方が変えられ、行いと生き方が根本的に変わるということです。聖霊はそういう、人間に対して具体的に働く神の働きのことです。聖霊は、人間の側での信仰と切り離せないもので、本当の信仰があるところで、聖霊が働き、人間を具体的に変えていきます。聖霊は、生き物の魂ということではなく、人間とは全く違う神の働きということです。そして本当の信仰のあるところには、目には見えなくても、聖霊が働いているということです。
 信仰によって聖霊を受けるということ、むしろ信仰によってだけ聖霊を受けることができるということについては、パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で書いています。ガラテヤの信徒への手紙3章2節と5、6節で、パウロはこう書いています。
 「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。」(ガラテヤの信徒への手紙2、5、6節)
 このように、聖霊を受けて、人間が変わる、それも根本的に良く変わり、後戻りすることがないのは、信仰によってであって、努力して律法を守り、良いことをしようと人間的な考えで努力することによってではないと、パウロは言っています。 
 つまり、人間的な決意や努力によって、頑張ることによって、人間は良くなることはない、むしろそういう善悪への囚われから解放され、自由にされることによって、人間本来の良さをのびのびと発揮できて、それによって良い行いを結果的に実現することになるというわけです。
 人間を良く変え、後戻りすることなく良く生きていくようにすること、つまり聖霊を受けるということは、ただ信仰によって根本的に自由にされることによってだけだということなのです。パウロはそのことを、律法の行いによって聖霊を得ることはできず、ただ信仰によってだけ聖霊が与えられると言っているのだと思います。
 このように信仰によって根本的に自由とされ、囚われた生き方から解放されて、本当に救われ、安心のうちに生きることができます。そういう経験をしたのは、ただパウロだけではありません。清沢満之という人もその中の一人です。
 清沢満之は明治時代の宗教家で、浄土真宗のお坊さんでした。彼が初めて歎異抄の大切さに気付いて、それで人々に広く知られるようになりました。それ以前にはそんなに良く知られてもいませんでした。
 彼はまじめな人で、若いころから人生について深く悩んで、哲学などもよく学んでいました。そんな彼は肺結核という病気で40歳くらいで亡くなったのですが、彼は死ぬ直前に「わが信念」という文章を書き残しています。彼が最後に到達したところがよく分かります。その一部を読んで見ます。「わが信念」の一部です。

…私等は通常、自分の思案や分別によりて進退応対を決行することであるが少し複雑なことになると、思案や分別が容易に定まらぬ様になる。それがために、段々研究とか考察とか云うことをする様になり、前に云うが如き標準とか実在とか云う様なことを求むることになりて見ると、行為の決着が次第にむつかしくなり、何をどうすべきであるやら、ほとんど困却の外はない様なことになる。言葉を慎まねばならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊りてはならぬ、礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ、自己に対する義務、他人に対する義務、家庭における義務、社会における義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務等、いわゆる人倫道徳の教えより出づる所の義務のみにても、これを実行することは決して容易のことでない。もし真面目にこれを遂行せんとせば、終に「不可能」の嘆に帰するより外なきことである。私はこの「不可能」に衝きあたりて、非常なる苦しみを致しました。もしこの如き「不可能」のことのためにどこ迄も苦しまねばならぬならば、私はとっくに自殺を遂げたでありましょう。しかるに、私は宗教によりてこの苦しみを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ。すなわち、私は無限大悲の如来を信ずることによりて、今日の安楽と平穏とを得て居ることであります。
 …無限大悲の如来は、如何にして私にこの平安を得しめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫も限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向う所、心の欲する所に順従(したが)うて、これを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さるることである。私は、ただこの如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に偏満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在、無障無碍に活動し給う。私は、この如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。

 清沢満之は如来という言葉を使っていますが、彼の言う如来というのを、イエス・キリストと言い換えてみれば、彼の言っているのは、私たちの信仰と変わらないということがわかります。
 このように、信仰によって律法の囚われから自由となり、心の赴くままに活動できるようになります。そして、その自由における行いが、人間に本来備わった良い行いとなるわけです。
 私たちの多くは、自分の善悪の判断力を過信して、その思い込みから離れることができません。歎異抄でも、われわれは物事の善し悪しばかりを言って、仏のあわれみによって生かされているのだということを忘れていると言っています。自分の善し悪しの判断力と、実行力を疑うことなく、その自分の力によって、善いことを実現していこうとするのが、普通の人たちの生き方ですが、これは、迷いに基づくものだから、自分の意図通りに良いことをやり遂げることはできません。
 パウロも、自分は何が良いか、悪いかはよく知っているが、その良いことを実際にすることはできないと言っています。
 むしろわれわれは、罪人であって、自分の力で善いことをすることができないということを認め、そのように無力で悪いものであっても、仏の無限の愛の力によって赦され、生かされ、護られ、自由にされているのだと気づいて、その信仰の中で生きていくべきなのです。
 その信仰の中で生きるときに、それまで無理に努力して、善いことをやろうとしてもできなかったことが、自然に、自分の努力なしに、自然な形で実現するようになります。それがここで、信仰によって聖霊が働いて、自分でも思いがけずに良いことができるようになると、パウロが言っていることの意味ではないかと思います。
 このように、信仰と聖霊、信仰と良い働きとは、切り離すことができないわけです。