荒城の月

   三森至樹

 「荒城の月」という歌は、日本人ならたいていの人が知っている。この歌には、日本人の心の琴線に触れるものがあるからだろう。
 その歌詞は、

春高楼の花の宴 めぐる盃陰さして
千代の松が枝分けいでし むかしの光いまいずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照りそいし むかしの光いまいずこ

いま荒城の夜半の月 変わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただ嵐

天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿
映さんとてか今もなお 嗚呼荒城の夜半の月

というものだ。歌詞は七五調の古語で書かれていて、聞いただけでは意味がとりにくいところもある。それを現代語に大きく意訳すると。
 
 春桜が満開のころ、城では夜の宴会か催されていた。広壮な天守を眺めながら、人々は、広い館の内外で酒を酌み交わしていた。そにには城詰の武将と兵士たちだけではなく、おおぜいの奥方や、下働きの下人たちもいた。
 人々はそれぞれに楽しんでいたが、人々の顔には、やがて訪れるであろう暗い予期が影を落とす時もあった。それは近い戦いの予期であった。近隣の国々がこの城に押し寄せ、今は平和なこの領国を戦乱の巷に巻き込むかもしれなかった。
 そのような不穏な空気の中催されている宴会の最中、一人の若い武将が人々から離れて、人気のない庭園に歩いていく。その庭園の松林の枝をかき分けて、彼は、酒の酔いのほとぼりを覚まそうと一人天空を仰ぐ。天には満月が煌々と照っている。その時彼の胸中に何が去来していたのかは、誰にも分からない。

 やがて季節は進み、その城も戦乱の渦に巻き込まれた。
 その戦いの後、今は秋となり、戦い敗れた陣営には、霜が降りている。人っ子一人いない陣営の跡には、血にまみれた剣が土に刺さったまま残っている。月光に照らされた空には、雁の群れが鳴き交わしながら飛んでいく。月の光が、跡に残された剣の剣先に煌めいている。

 あのもののふたちが集って、愛と戦いの物語を紡いでいた昔の城跡は、今はすっかり荒廃に帰している。城跡の垣にはただかずらが生い茂り、松林には強い風がこうこうと鳴っている。その荒れ果てた城跡を、銀色に煌めく晩秋の満月が照らし出している。
 月影は古今変わることなく照り輝くのに、人の栄枯の営みは千変万化し、移り変わっていく。その万感の思いを、荒城の夜半の月が永遠に湛えている。
 
 荒城の月が歌われているのは、作詞の土井晩翠によれば、仙台青葉城とも、会津鶴ヶ城ともいわれているし、作曲家の滝廉太郎がイメージしていたのは、大分県竹田市の岡城跡ともいわれている。しかし、わたしには、八王子城のことがすぐ思い浮かべられる。というのも私は今八王子の隣町の昭島市に住んでいるからだ。
 昭島市も八王子も、徳川家康が江戸に入ってきて幕府を開く以前には、北条早雲から始まる後北条氏が治めていた。後北条氏の中心はもちろん小田原城だったが、八王子城も後北条氏の重要拠点だった。そして八王子城は、後北条氏の当主である氏政の弟氏照の居城だった。
 その氏照が依っていたのは、八王子城に移る以前には、昭島市の対岸の滝山城だった。滝山城は多摩川に接する小高い山城だ。
 この滝山城も八王子城も、後北条氏が1590年に豊臣秀吉によっ滅ぼされるとともに、落城した。この年は、関東における支配者が決定的に変わった重要な年だった。この年をもって、関東では中世と戦国時代は終わりをつげ、江戸時代に変わった、そういう重要な年だ。
 そういうわけで、私には、「荒城の月」で歌われている城跡として、すくに八王子城のことが思い浮かぶのだ。
 この後北条氏の滅亡については、前に書いた文章があるので、それを引用したい。

八王子城の幽霊(4)

   三森至樹

 さて、小田原城が陥落し、後北条氏が滅亡したとき、例の八王子城はどうなったかと言うと。その当時の八王子城の主であったのは、北条氏照だった。彼は滝山合戦の後、1587(天正15)年に本拠地を滝山城から八王子城に移している。その理由ははっきりしないが、一つの説として、氏照は「滝山」という名前は、滝が落ちるということを連想させ縁起が良くないと言い、それで居所を変えたのだという。それはとにかく、小田原城の攻防の際には、氏照は八王子城ではなく、重臣たちとともに小田原にいて、兄で当主である氏政とともに小田原城に立てこもっていた。
 八王子城は、豊臣方の上杉景勝、前田利家、真田正幸たちの軍勢、約1万5千人に取り囲まれた。そのとき城内にいたのは、氏照の数名の家臣と、わずかな将兵であった。また、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人もいた。そんな彼らは城に立てこもって孤立していた。やがて総攻撃が1590(天正18)年6月23日に開始され、その日のうちに八王子城は陥落した。そのさい、城にこもっていた兵士たち、婦女子、農民たちはほとんど全員が惨殺されたり、自害したりした。この八王子城の戦いは、小田原攻めで他に例を見ない殲滅戦であったと言われている。
 落城時に城内にいた北条方の婦女子や武将らは、城の中を流れる滝の上流で自刃し、次々と滝に身を投じた。氏照の正室、比左を初めとする城内の婦女子も、あるいは自刃したり、あるいは滝に身を投げたりした。滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている
 例の八王子の城跡に出るという幽霊の話は、このときの凄惨な戦いの中で、無残にも殺されたり自殺したりした者たちの無念が、近隣の人々に語り伝えられ、その怨念が幽霊となって現れるといううわさが広まったことから始まっていると思われる。実際にその幽霊を見たという人がいるのも事実だ。
 八王子城の攻防戦が始まって、悲惨な結末を迎えたのは、1590年の6月23日だったが、そのとき小田原城にいて、戦いの最中であった北条氏照はまだ生きていた。小田原が落ちるのはその後、7月11日のことだから。たぶん氏照は、自分の妻や家臣たちの死のことを聞き、また城外でさらし者になった八王子城の者たちの姿を遠くから伝え聞いただろう。そのとき彼はどんな思いだっただろうか。