あのときに考えたこと-脳梗塞発症の前後(7)
三森至樹
さて、これからは昭島市の竹口病院での入院生活について書くことになる。
勘定してみると、川崎市高津区の帝京大学病院には、2012年の10月と11月の二か月入院していたのだが、竹口病院でも2012年の12月と翌13年の1月の二か月入院していた。合わせて四か月余り入院生活を送ったことになる。
竹口病院での入院生活も、帝京大学病院とあまり変わらないので、それについてはもう詳しくは書かない。わたしの場合、毎日のリハビリと、読書と字を書く練習を、同じように繰り返していった。そこで、竹口病院での入院生活で、印象に残ったことをいくらか書いてみる。
入院した当初、三、四日だけ三階の個室に入っていた。竹口病院は三階建てなので、その一番上だ。しかしその後は、二階の大部屋に移り、五、六人の患者とベッドを並べて過ごした。
竹口病院は主にリハビリ向けの病院で、ひどく重い病気の人は少なかった。そのためか、前の病院では食事はそれぞれ個別にベッドに運ばれてきて、それぞれ別々に食べていたのに、竹口病院では大きな食堂室があって、患者は、特別な場合以外はそこでみんなで食事をした。だから、食事のときは賑やかだった。患者はそれぞれ大体決まったテーブルに座り、大体決まったメンバーで食事をした。
その部屋は、食事のとき以外は、ときどきレクレーションにも使われていた。病気の比較的軽い人たちが、五、六人ずつテーブルについて、折り紙とかなつかしい歌謡曲のカラオケを聞くとか、いろいろなレクレーションをするのだった。
またその食堂室には、大きなテレビが備えてあって、食事のときにはテレビを流していた。わたしが覚えているのは、ある日昼食を食べながらニュースを見ていたときのことだ。その当時は民主党政権が行き詰ってしまって、政権交代が起きそうだった。ニュースでは、民主党の野田首相と、自民党の安倍晋三氏が丁々発止の激しい討論をする様子を流していた。
わたしはテレビに映し出されるそんな様子を、無関心に眺めていた。世間で大きな話題になっている事柄が、政治のことにしろ、その他のいろいろな話題にしろ、そのときのわたしには何の関係もないことのように思われた。
脳梗塞を発症して以来、以前にはそれなりに興味のあった関心事が、自分には関係のないもののように考えられるようになった。入院生活を通じて、わたしは自分の中で、わたしにとって究極的に問題となる事柄と、それ以外の、究極的にはどうでもいいこと、結局話のネタになるに過ぎないこととを分けるようになってきた。その区別をわたしは、第一義的関心事と、第二義的関心事の区別と呼ぶようになった。
わたしにとって第一義的関心事というのは、もちろん、わたし自身の死ということだ。ICUのベッドの上で、「死ぬかもしない」とおびえていたことが、わたし自身の死を他の何にもまして重大なこと、究極的関心事として意識させるようになったのだ。わたし自身の死ということは、それ以外のこととは全然違うことなのだということが分かってきた。
安倍さんが野田首相にとって代わって首相になるということは、わたしが自分自身の死に向き合っているときには、どうでもいい、単なる気晴らしに過ぎない。自分自身の死について忘れているときだけ、世間のことが視野に入り、あたかもそれが大事なことのように思われてくる。そういう、自分にとって究極的にはどうでもいいこと、究極的なことから関心を逸らさせるにすぎないもの、それが第二義的関心事だ。
そういうふうに考え始めたわたしにとって、テレビで流されることがらは、自分には無関係な、単なる風景の一部に過ぎないもののように感じられた。ああ、そんな映像が流れているなという感じだった。
そういうわけで、わたしは、以前には社会のあれやこれやについていろいろ論じるような文章も書いていたのに、それ以来ふっつり書かなくなった。そんなことは余計なことだと思うようになった。だから、わたしはテレビに出てくるコメンテーターのような人たちとは、真逆の態度となり、何を書くかについては以前より慎重になってきた。
まあそれはさておき。
やがて選挙となり、竹口病院でも病院内で選挙が行われた。その選挙当日の前に、病院に入院していたある中年女性が、各病室を回って公明党の誰それをよろしくと言って、投票を勧誘するということがあった。たぶん彼女は創価学会の会員だったのだろう。病室の人たちは白けた感じだったが、彼女はそんなことには無頓着だった。彼女は、病院の中でも自分が入っている団体に忠実だった。病気が人の考え方を変えることもあればそうでないこともある。入院を通じて世間の見方がちょっと変わってしまったわたしには、その出来事はちょっと面白かった。