歩き回った街の記憶
三森至樹
ときどきポスティングをする夢を見る。
どこか見知ったことのあるような街の通りを、住宅地図とチラシの束を抱えながら、一軒一軒のポストにチラシを投げ込んでいく。
なぜ夢の中にポスティングで歩き回るというのが出てきたのかというと。わたしは今は脳梗塞の影響で、外を歩き回ることはできず、もっぱら車椅子で動き回っている。しかし今から12年ほど前にその病気になる前は、川崎市に住んでいて、そのころ塾の仕事の合間にポスティングをして外を歩き回っていた。
ポスティングの仕事でいろいろなところに出かけて歩き回るのが、わたしは大好きだった。その仕事は10年以上続けた。その大好きだった仕事の思い出が、ときどき夢に出てくるのだろうと思う。
わたしはそのころ川崎に住んでいたので、ポスティングで出かけるのは主に川崎市内だった。わたしは今は東京昭島市に住んでいるのだが、わたしの心の中には懐かしい川崎がいまだに生きているようだ。
例えば、テレビのニュースなどで川崎市で起こった事件のことがが紹介されると、川崎だって?それは川崎のどこだろうと、がぜん興味がわいたりする。そして心の中で、あああそこだな、とイメージが湧き上がってくる。
それに比べて、今住んでいる昭島市には、実際に自分の脚で歩いた経験がないためなのか、昭島のどこかで何か事件とか事故が起こったとしても、例えば宮沢何丁目とか聞かされても、イメージの連想が全くわいてこない。
この前、デイサービスの送迎車に乗っていたとき、たまたま車がそれまで行ったことのない美堀町の道を通ったことがある。そこは玉川上水が通っているところだが、その昭島市でも北側に位置している美堀町を車が行くとき、わたしは自分がどこにいて、車はどこに向かっているのか分からなかった。それで、ここはどこなんだろうという心配と、ちょっとした興奮を感じていた。つまりそれは、初めての場所に行くときには人が感じる、非日常の冒険をしているという感覚だった。
このように、行ったことのある場所と、初めて行くところでは、受ける印象が違う。同じく自分の脚で歩いたことのない昭島市であっても、行ったことのある所と、初めてのところでは、土地の印象とその記憶に濃淡がある。つまり、初めて行くところと、行ったことがあっても自分の脚で歩いたことのないところと、何回も自分の脚で歩いたことのあるところとでは、受ける印象とそのとき経験したことの記憶には違いがある。最も強い記憶が残っているのは、やはり自分の脚でテクテク歩いたところだ。
だから、今住んでいても自分の脚で一歩一歩踏みしめながら歩いたことのない昭島市よりは、昔そこに住んでいて、長いこと自分の脚で歩き回った川崎市の方が、わたしの記憶には強く残っているようだ。そして、その土地の出来事には強いイメージをもって反応したり、また夢の中でもその土地の記憶が現れてきたりするわけだ。それはやむを得ないことだ。