毎年必ずやってくる
3月11日。

私が住んでいる仙台市は
住んでいるエリアによっても
すごーく被害に差があって
(私は若林区というエリアに在住)

当時から温度差は
その被害の大きさによる感じていました。

当日何を見て
どう感じて過ごしていたのかは
時間と共に薄れて行きがち。

だからこそ今日という日は
毎年夕食の時に子ども達と一緒に
3.11の当時について話す日にしています。







こんにちは😃!

自分の心身は自分で整える
あるく保健室代表の
雪田めぐみです🌟

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当時の私は

自宅から7キロほどの場所にある

クリニックで看護師をしていました。



まだ次女が生まれる前だから

長男と長女2人の子育て中で


花粉症の季節のため

結構忙しい時期だったのを覚えています。


午後の診療が14時30分からスタート

でしたので


幼稚園終わりで

受信した5歳くらいの男の子や

年配の方が数名クリニック内に

いらっしゃいました。



突然、ドーンと下に

落ちるかのような縦揺れで

ビルの3階にあるクリニックは

のっけからかなり振動を感じて


地震はこれまでも経験していましたが

明らかに今までとなんか違う事は

3秒くらいで察知しました。


すぐ近くに

5歳くらいの男の子と

そのママがいたので


私は2人を覆うようにしながら

落下物の少ない場所で

しゃがんでいましたが


収まるどころか

縦揺れから横揺れから

どんどんどんどん揺れも

大きく激しくなり


棚からカルテが雪崩のように落ち

受付の女子2人がそれに

巻き込まれて


医療器具がガチャンガチャンと

音を立てて床に落ちて行きました。


みんなのスマホから

何度も鳴り響く緊急地震速報。


そんな最中に

『僕たち死ぬの?』と、

私が覆い被さっていた男の子がつぶやきました。



『大丈夫!大丈夫だからね』

と伝えるのが精一杯でしたが

不思議と頭は冷静で


このままだとクリニックのガラスの

扉が建て付けがずれて

開かなくなるかも、と思い


揺れが一度緩くなった時

出口付近にいた別の看護師に

ドア開くか確認お願いします!

と叫びました。



なんとか出口は確保。


だけど、いつもなら

収まるタイミングで全く止まる

気配のない揺れ。


ビルを手のひらの上で

ぐわんぐわんと横にゆらさてるような

感覚でした。


もはや停電もしていて

非常灯のみ点灯。


その後も余震はありましたが

きっと本震は終わったかな?

と思えたのは10分以上経過してから

だったように思います。


その時はまだ、大津波警報が

かなり広い範囲に出てるのは

速報でわかりましたが


津波が到達したらしい

という事はわかっても、

ここまで甚大な被害が起きているとは

到底想像できていませんでした。


まずは

患者さんを無事に帰宅させて


明日は休診の張り紙を貼ったりしながら

それぞれの家族に電話するも

やはり混線して不通。


たまたまその時元夫は自宅にいたので

揺れがおさまった後すぐに

保育園にいる子ども達を

迎えに行ってくれていました。



若林区の自宅アパートでの

地震は想像よりもかなーり酷かったようです。

急いで冷蔵庫と食器棚を押さえて

いたようですが、



そんなの関係ねぇバリに縦揺れ横揺れが襲うので

逃げるようにリビングに移動して

テーブルに隠れていたそう。



我が家は水道こそ使えましたが

ガラスも飛び散り食器類は落ちまくり

靴でじゃないと部屋に入れませんでした。



子ども達は午睡中でしたが

毎月防災訓練をしていた賜物と

先生方の適切な対応により


パジャマのまま裸足で園庭に出て

防寒着を着せてもらい

随時お迎えを待つ体制だったようです。



外はチラチラと雪が舞い

それまで晴れていたのにどんどん

寒くなっていました。



子ども達2人と元夫は無事

私の職場まで迎えにきてくれて合流できました。



ちなみに

同じ職場の看護師さんは、

5時間かけて歩いて自宅に帰宅したそうえーん

街中を突っ切るのですが


人もいっぱい、ビルもいつガラスが

落ちてくるかわからない、

停電で信号機も動かないので

とても怖かったそうです。


私たちも帰りがてら、

充電器くらい買っておく?

と気軽な感じでコンビニに入ったのですが

被災後1時間足らずで

すでにあらゆる商品が欠品するくらい

購入済みで驚いたと同時に


これからライフラインが復旧するまで

どんな生活を送るんだろう…

と不安になったのを覚えています。


雪が降る寒い3月の日。

パジャマに上着を着て

裸足に靴を履いた子ども達と帰路に着きますが


信号機が動いてないため

かなーり時間がかかりました。


そして初めて見る、

明かりが一つもない仙台市内。




こんなにも暗いんだ。




仙台に住み始めて

自宅から初めて天の川を見ました。


遠い海の方では

火力発電所が爆発して燃えていて

海の方が赤ーく光り



あまり話した事がない

近所の方と沢山話しました。


当日近所に住んでいた友人と

我が家合わせて5人で

最初二日間は車の中で寝泊まりし、

落ち着いたあたりから

部屋を片付けて1週間くらいかな?

一緒に生活しました。



八百屋に並び

ドラッグストアに並び

その日その日に食べるものを

冷凍庫や調達できたものから

献立をみんなで考えて


夜はろうそくの火で過ごして

早寝早起きして


電気はすでに4日目には

復旧していたので

我が家はライフラインは

割と整っていたかもしれません。


TVで流れるニュースや

流れすぎてトラウマになるあのCMや

日に日に増える行方不明者の数。

頭の中が、常に地震・津波と一緒でした。


すぐ近くまで

津波の水は来ていたので

自転車で行ける距離が被災地でも

ありました。


私が住んでいるエリアから

自転車で5分も走れば

被災のため交通規制がかかっていた

エリアとなります。


今までの街並みが思い出せないほどの

状況の中、瓦礫の下や流されて来た

車の窓に、旗が🚩つけられているのを

今でもたまに思い出します。


神戸やいろんな所から

ボランティアに来てくださって

いたのも覚えています。



すぐ近くで

とうもろこしを一本1000円

近くで売ってると聞き腹を立てた事も

覚えています。


たまたま数日前に

実家から食べ物が沢山

送られて来ていたので助かりましたが


普段食べるもので良いから

1週間分位は備蓄しないと!

と肝に銘じたのも覚えています。


水だって、今回は断水しなかったから

飲み水もトイレも大丈夫だったけど

簡易トイレや水のストックも絶対!

と肝に銘じたのも覚えています。


一番困ったのはガソリンで。

被災してすぐから、至る所でガソリン

スタンドは渋滞・行列でした。


しかも当初、一派人はガソリンを

入れる事ができず

緊急車両やそれに従事する人

医療従事者優先でしたから、


いつなん時どうなるかわからないから、常にガソリンは満タンにしておこう!と肝に銘じたのも覚えています。



それがどうでしょう。


人間は忘れる生き物だから

時間が経てば経つほど

記憶が薄れていくのは仕方ない。


だからこそ、

忘れない努力って必要だと思うんです。


そのために私が気をつけているのは、

習慣にする事。


ストックの量は

定期的に確認する事や


毎年3月11日は

家族で震災について話す日と

決める事。


毎日の買い出しで

備蓄をうまく回すことなど

特別なことにしない工夫を

日々するようにしています。



ただ、ガソリンはなかなか

常に満タンに出来てない!

今日改めて肝に銘じます笑い泣き



家族の中で風化させない努力をしたい。


13年前の私が一番強く感じたのは

当たり前の毎日への感謝と、

当たり前じゃない3.11の経験から

日々できる事をしっかりやる!事。



今あなたにできる備えが

明日の家族を大きく助ける

一歩になる。


そのうち〜と言わず、

今できる一歩を。


今回私は、非常用に笛を追加しました♪








最後まで読んで下さり

ありがとうございます😊




今日もあなたに


ホッとする素敵な事が


起こりますように







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