197 悲恋と男爵薯 | 無無明録

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川田龍吉(かわだ りょうきち)は、1856年(安政3)、土佐藩士で後に日銀総裁となる川田小一郎の長男として生まれた。龍吉は22歳の時、英国スコットランドへ留学し、グラスゴー大学で機械工学、ロブニッソ造船所で船舶用機関術を学んだ。グラスゴーでは、長州ファイブの山尾庸三も造船技術を学んでいるが、密航したのが1863年(文久3)だから龍吉と山尾庸三との接点はないな。



それはさておき、龍吉は留学中にジェニーと云う本屋で働く18歳の女性と恋に落ちた。二人は結婚を望んだが、龍吉の父親が猛反対し、その恋は実ることなく龍吉は帰国する。当時とすればそんなものなのだろう。龍吉は、ジェニーに「必ず迎えに来る」と約束して帰国したのだが、二人は二度と会うことはなかった帰国して3年後、龍吉は、高知小町とうたわれた楠瀬春猪と云う女性と結婚して5男2女をもうけた。龍吉は、父の爵位を継いで男爵となり、順風満帆の生涯を送るのだが、ジェニーのことは生涯忘れられなかったようだ。



1906年(明治39)、龍吉は、日露戦争後の不況に陥っていた函館ドックの再建を依頼され、北海道に渡った。同社の専務取締役になり、函館大火や暴風雨などの天災や不況に見舞われながらも経営を徐々に軌道に乗せていった。龍吉は、事業が安定すると、後事を弟に託し、上磯郡茂別村当別の山林を購入し、開墾に打ち込んだ。


北海道のジャガイモが病虫害に悩まされていて栽培が難しいと云う話を聞いた龍吉は、北米から病虫害に強い品種を取り寄せ、4年間も改良を重ねた。そして、出来上がったのが「男爵薯」だ。龍吉は、留学時代ジェニーとデートしたときに、よくアツアツのジャガイモを食べていたと云う。龍吉がジャガイモ栽培に打ち込んだのは、ジェニーとの思い出があったからなのかもしれない。龍吉が改良したジャガイモが正式に「男爵薯」と名称が決ったのは昭和3年、北海道の優良品種に決まったときのことだそうだ。




ジャガイモの花


その後も龍吉は、アメリカから最新式の農機具を多数輸入し、機械化による農業を試みるなど、後半生を北海道農業の近代化のために費やし、龍吉の農場は北海道農業の近代化に大いに貢献したのだった。龍吉は、上磯町当別で95歳の生涯を終えたのだが、龍吉の死後、金庫から90通にものぼるジェニーからのラブレターと一房の金髪が発見されたのだった。


×印は、キスマークなのだそうだ。切ないな・・。


留学していた頃、龍吉は、ジェニーに教会へ誘われたが、天皇陛下への忠誠心から断っていたと云う。しかし、龍吉は、92歳のとき、トラピスト修道院でカトリックの洗礼を受けた。修道院の敷地内に龍吉が眠る墓もあるそうだ。




龍吉の奥さんの春猪さんが亡くなったのは、1939年(昭和14)、龍吉83歳のときのことである。春猪さんはおそらく生涯、龍吉の胸の内の想いを知らなったことだろうと思えば、これも切ない。ジェニーは勿論のこと、春猪さんも気の毒だと思う。龍吉に弟がいるなら後嗣の心配はないのだから家など捨てて、ジェニーの待つグラスゴーにすぐさま戻ればよさそうなものだと思う。

 龍吉に90通もの手紙を送ったジェニーに、龍吉からの返事は届くことはなかったそうだ。ジェニーは一体どんな想いで龍吉を待っていたのだろうか。川田龍吉は、罪作りな男だと思う。しかし、ワシには龍吉の気持ちが分かるのだ。


自分自身のためだけの勝手な行動に走れば周囲に大きな迷惑をかけてしまう。しがらみに縛りつけられ、もがきながらも自分の運命と諦め、仕事に打ち込んで、ジェニーへの想いを封じ込めようとする。一方で、ジェニーに対して申し訳ないと云う気持ちが自分を苛む。ジェニーを忘れようとすればするほど想いが募ってくる。空を見上げればジェニーの顔が、地面を見ればジェニーの顔が思い浮かぶのである。ワシも昔のことを思い出すと咽喉が締め付けられる思いがする。まばゆいばかりの笑顔が今もしっかりと瞼の裏に浮かぶのだ。あれからもう何年経ったことだろう。


ん?あっ、あれっ?なんだ? ちょっと待てよ。ワシは一体何を云っているんだ?いや、ワシ、そんな経験なんか全くなかったわ。ワシ、妄想の世界に迷い込んでいたようだ。あ~っ、びっくりした!






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