函館に来てから朝風呂に入ることが多くなった。朝、5時半位に目覚めるようになったので、出勤までに時間があるからだ。狭い浴槽ながらも気持ちだけはゆったりとするのはいいものだ。しかし、この朝風呂、何故か一抹の後ろめたさが頭をよぎるのである。
その原因はなんだろうと考えて、はたと思い当った。小原庄助さんである。例の「小原庄助さん♪なんで身上(しんしょう)つぶした?朝寝、朝酒、朝湯が大好きで♪それで身上つぶした♪(は~あ もっともだぁもっともだぁ♪)」これだった。子供の頃、ばあ様に、こんなことをするような人間には絶対なるなと云われて、それが朝湯の後ろめたさになっていたのである。
ワシは、朝5時半起きだから朝寝は当たらない。勿論朝酒もやらない。問題は朝湯である。朝シャンなんて言葉が定着している昨今、朝風呂くらい問題ないだろうとは思うのだが、どうもすっきりしない。そもそも小原庄助さんって何者なんだろ?
この「小原庄助さん♪」は、民謡「会津磐梯山」の中の囃し言葉なんだそうだ。となると、小原庄助さんは会津人と云うことになる。ワシの先祖は会津だから、まんざら縁がない訳ではないな。小原庄助さんにはいくつかの説がある。.
まず、一番目の庄助さんは、江戸時代、会津若松城下にあった屋号を「丸正」という商人で、材木で大儲けをして、東山温泉で連夜の豪遊をしたところからモデルとなったという説だ。「小判釣り」と云う遊びをしたと云う。どんな遊びかは知らないが、なんせ小判である。紀伊国屋には及ばないかもしれないが、それは豪気なものだ。「朝寝、朝酒、朝湯」は当然やらかしただろうな。いかにも唄の文句のように身上をつぶすほど遊んだらしいのだが、身上をつぶしたと云う記録はないそうだ。
会津東山温泉。こりゃ、風趣があるいいところだ。行ってみたいな。
この温泉には、土方歳三が湯治に使った岩風呂がある。
これが、その岩風呂。
二番目の庄助さんの先祖は、1643年(寛永20)、会津藩の藩祖と云われる保科正之と云う殿様とともに信州の高遠から会津にやってきた。それからおよそ200年の時が過ぎ、時代は幕末になるのだが、その幕末に小原庄助なる人物がいたのだそうだ。苗字帯刀を許された郷頭という身分で、戊辰戦争の際にはいわゆる官軍と壮絶な戦いを繰り広げ、勇猛果敢に戦って戦死したと云われている。その墓は、現在も会津若松市内の秀安寺にあると云う。小原庄助さんには間違いはないのだろうが、「朝寝、朝酒、朝湯」の放蕩のイメージはない。むしろ武人だな。
三番目の庄助さんは、会津漆器の塗り師で久五郎と云う人物。この庄助さんは、酒が滅法強いと云うより、血統書付きの飲兵衛だな。さすがにワシもここまで飲みたいとは思わない。昨夜散々飲んだから。いや、そう云うことではなくて、有名な画家の谷文晁(たにぶんちょう)の弟子で羅漢山人という人が会津から少し離れた白河に住んでいて、この庄助さんは羅漢山人のもとに絵付を習いに行って亡くなったらしい。
その墓が白河市の皇徳寺に今も残されて いる。この庄助さんの戒名が「米汁呑了信士」(べいじゅう どんりょう しんじ)と云うのだから恐れ入った。それでもって、墓石の形は猪口と徳利ときた。さらに時世の句が「朝によし 昼なおよし 晩によし 飯前飯後その間もよし」ときたもんだ。何だか太田南畝先生の作に似ているような気もするが、そんなに酒ばかり飲んでちゃ体を壊す。客死したのもきっと体のどこかが悪かったんだろうな。
普通ここまでやるかな。この庄助さんは皆から愛されていた人かバカにされていた人か、どっちなんだろ?
さて、三人の庄助さんが登場したのだが、有名なのは二番目の戊辰戦争で勇猛果敢に戦って戦死した庄助さんだろう。遊びっぷりは一番目の庄助さんだな。飲みっぷりは勿論三番目の庄助さん。民謡「会津磐梯山」の中の囃し言葉に出てくる小原庄助さんとは、名前が有名な二番目の庄助さんの名を使って、1番目の遊びっぷりと三番目の飲みっぷりを合体させたものなんじゃないだろうか。
いずれにしても三人とも身上はつぶしていない。「朝寝、朝酒、朝湯」の三拍子が揃ったら、完全にアウトだ。どれか二つでも駄目だな。でも、朝湯だけだったら何の問題もない。朝湯一つで、気に病む必要ないと、ね、ばあ様、そう云う訳ですよ。
(は~あ もっともだぁもっともだぁ♪)
無無明人