132 横瀬夜雨「野に山ありき」掛け軸 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 横瀬夜雨「明治11(1878)年‐昭和9(1934)年」は、真壁郡横根村(現・下妻市)生まれ、本名は虎寿,号は夜雨、別号宝湖を用いた。長塚節の生家と姻戚にあたる豪農の次男に生まれたが,幼少時に佝僂(くる)病の身となり,生涯常人の知らぬ苦悩と試練を味わう。その分、詩だけが彼には救いであり,その不幸が《夕月》(1899)、《花守(はなもり)》(1905)、《二十八宿》(1907)などの個性的な名詩集を生み,《死のよろこび》(1915)の悽愴な歌集となった。おもに河井酔茗らの雑誌《文庫》に拠って詩風を形成したが,彼の詩はすぐれて独創的であり,かつ多彩,自然や人間を歌っても作者の内面の投影が見られる。浪漫的な情感の濃い詩風で知られ,筑波嶺詩人と言われた。

  彼の家は節と同様に豪農で、恵まれた家庭に生まれ育ったが、満3歳の時に脊髄の異常である「くる病」に罹ってしまった。8歳の時、大宝尋常小学校に2年遅れて入学し、成績は常に1番であったが、4年生の時にいじめに合い、以後自宅にこもって読書に明け暮れ、独学の道を歩んでいる。夜雨は、「少年文庫」に投稿を初め、18歳の時に「神も仏も」を「文庫(少年文庫が改題されたもの)」に寄せ、文壇への道を開いた。「・・・神も仏もほろびしか 此の世は鬼のすみ家にて 狂ひなやむを笑はんと 人てふものを造りけむ」と自分の障害を真っ直ぐに吐露しているこの作品は、評判を呼び、その後彼は、筑波嶺詩人としての声望が高まっていったのである。彼は40歳の時、家庭を持ち、3人の女児の父親となり、51歳の時には、河井酔茗、北原白秋らと共に、筑波山にも登っている。そして多くの詩友に囲まれて、昭和9年、肺炎により57歳で歿した。姻戚にして、深い交流を結んだ長塚節は、女性には縁が少なく、家庭を持つことなく、非業の死を遂げているが、夜雨は、不自由な身体であったが、「女子文壇」の選者となり、多くの文学女子とも交流し、仕合わせな人生を送ることができたのである。

今回の手元にある史料は、夜雨自筆の掛け軸であるが、かれの字には、独特の味わいがあり、いつまでも見ていて飽きない魅力を感じる。

「野に山ありき すいかずら つるなる花の ほのぼのと 匂ひて暁の 紫ハ 筑波に負へる名となりぬ 雲、南(みんなみ)に浮くとのみ かすめる空に 鳥鳴きて 竹の小弓を 携へし 子らは麦生に かくるらむ  (野に山ありきぬきがき) 夜雨[落款]


この書には、野に山ありきぬきがきとの記載があり、彼の作った長編の詩の冒頭の部分であることは、直ぐに分かった。この「野に山ありき」は、詩集として、昭和22年に南北書園から発刊されているが、その一部は少し違っている。まず、収録された作品では、この2行目は「筑波に負える色となり」であり、最後が、「かくるらん」となっている。

なお、上の落款は、「登山(筑波山の形)一題」とあるので、背負われて筑波山登山をした後の作品ではないかと思われる。この詩もまた、彼の代表作の一つである。