131 長塚節の色紙「小夜ふけて・・・」 | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 長塚節「明治12(1879)年-大正4(1915)年」は、本県が生んだ最も偉大な歌人であり、農民文学の先駆者である。彼は、茨城県岡田郡国生村(現常総市国生)で、父源次郎、母たかの長男として、生まれた。父は明治20年から県会議員、同40年には第20代議長を努めている。節の祖父久右エ門が商才のある人で、質屋・肥料・小間物等の商いを家業とし、節の誕生した頃は水田6町6反余・畑159反余を保有し、多数の使用人を抱え農業経営も営んだ幕末維新期の豪農であった。節は、旧制茨城中学校(現県立水戸第一高等学校)に首席で入学したが、四年生の時、病気で中退し、正岡子規の『歌よみに与ふる書』『百中十首』などを熟読して子規に傾倒し、明治33年から正岡子規に師事した。36年伊藤左千夫らと「馬酔木」を創刊、写生説を説いて短歌を発表した。43年には夏目漱石の勧めで「東京朝日新聞」に小説「土」を連載し、大変な好評を博し、一躍人気作家となった。彼は、旅をこよなく愛し、国内の色々な土地でその自然と人情に接し、詩を詠み、文を綴っている。私の自宅の近所に、諏訪梅林があり、そこにも、彼の歌碑が建っている。「雪降りて 寒くはあれど 梅の花、散らまく惜しみ 出でて来にけり」 この句は彼が23歳の3月下旬、雪が降っている時に訪れて詠った短歌である。

  しかし、明治44年喉の痛みを周囲に訴えるようになり、医者の診断により、喉頭結核でこのままでは余命1年か1年半と言われる。彼は治療を続けながら、入院、手術を繰り返し、名医を求めて九州の病院に入院大正4年2月8日死去した。37歳の若さであった。

 手元にある今回の史料は、彼の短歌の掛け軸である。この詩の内容は、変体仮名が多く、なかなか読めずに苦労したが、歴史に詳しい先生の助けを借りて読むことができた。そこで、彼の短歌集をいろいろ探し、やっとこの詩にたどり着いた。歌集「鍼(はり)の如く」の中に収録されていたのである。

この作品は、「鍼の如く」其の四の中に収録されていた。「四日深更(しんこう)、月すさまじく冴えたり」との言葉の後に載っている3つの短歌の一つである。

小夜婦个てひ楚か

尓蚊帳耳さす

徒き越ねむれる人盤

みな志らざら無

 

                                                 

 

「小夜更けて ひそかに蚊帳に

さす月を 眠れる人は みな知らざら む 節」 という詩である。

 

節は、家族や知己、歌友へもよく手紙を書いた。また、意に沿う歌が生まれると色紙に書いて飾ることもよくしたようである。この毛筆で書かれた字は、洗練された冴え、独特の味わいを感じさせる。死期が迫っていることを感じながら、結核の隔離病棟のベットの上で、心に浮かんだ叫びであろう。大正3年7月4日、九州の夏は暑い。窓を開け、ベットの周りに蚊帳を吊って、蚊に刺されることを防いでいた。真夜中になっても、眠ることができない。その蚊帳を通して、窓から月の光が差し込んでいる。このような美しい月の光を、眠っている人は誰も気付かないだろうという気持ちである。このあと、短歌雑誌「アララギ」の昭和4年の新年号に、「鍼の如く」其の五が掲載され、その1か月後に帰らぬ人となったのである。

彼には結婚を誓った黒田てる子という許嫁がいた。しかし、結核という死の病のため、婚約を解消していた。長編小説『土』は彼の代表作であるが、渾身の力を振り絞って、死の直前まで、病気と闘った気持ちを「鍼の如く」という短歌集に遺した彼の生き様には感涙を禁じ得ない。

昭和60年、小説家藤沢周平により、彼の生涯は『白き瓶』という作品になり文芸春秋社から発行されている。