133 水戸藩士 原田八兵衛の書簡 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 原田家は、水戸藩初代頼房公の時代から、水戸家に仕えた譜代の家臣であり、原田家文書には、藤田家、戸田家とともに、水戸の三田の一つであると記されている。特に、第6代の原田成祐(平介)「寛政3(1791)年-文久3(1863)年」は、斉昭公の天保の改革時、奥右筆頭取となり、側用人藤田東湖、若年寄戸田蓬軒とともに改革を牽引していった人物であり、立原翠軒(萬)の妹が母親であった。

  原田成徳八兵衛「文政10(1827)年―万延元(1860)は、成祐(平介)の長男であり、7代の原田家の当主となる。彼は、藤田東湖の長女徳を娶り、定江戸中奥小姓、小納戸役、小姓頭取、奥右筆頭取を務めていたが、34歳で病殁した。また、彼の弟は、明善(誠之介)といい、幕末の激動期に江戸詰の水戸藩士として、奥右筆頭取を努めたが、改革派に属していたため、赤沼の獄に繋がれた。明治維新後は、大蔵省官僚となり、小笠原島の日本帰属問題の重責を果たしている。原田八兵衛や明善が、幕末激動期に注目が薄いのは、彼らが、改革派の中では、改革鎮派に属し、尊皇攘夷に運動から一線を画していたからであろうが、真剣に水戸藩の将来を考えていたのは間違いない。

 今回の史料は、原田八兵衛から、小瀬弥一右衛門へ宛てた書簡2通である。2通とも封書に入っており、どちらも小瀬家所蔵文書の一部であった。

 今回の史料は、原田八兵衛から、小瀬弥一右衛門へ宛てた書簡2通である。2通とも封書に入っており、どちらも小瀬家所蔵文書の一部であった。

 八兵衛が活躍した時代は、尊皇攘夷の激動の時代であった。井伊直弼による安政の大獄により多く志士の命が消えていった。八兵衛は、江戸の屋敷において、越前福井藩士の橋本左内と薩摩藩士西郷隆盛を引き合わせたり、義父である藤田東湖や戸田蓬軒と西郷隆盛との交流に尽力したことで知られている。

 安政5年、幕府は米国総領事と「日米修好通商条約」を天皇の許裁を受けずに調印し、不時登城して大老井伊直弼らを詰問した斉昭に急度慎の処分を下した。また、水戸藩に対し、国内外の治安を図るため、三家、三卿、家門、列藩等に勅書を伝達するようにという天皇の「勅諚」がもたらされた。「茨城県幕末史年表」によれば、万延1年2月1日に「水戸藩小姓頭取板場熊吉、同原田八兵衛、勅書返納に関する藩命をうけて帰藩の途次、常陸国長岡駅に於て屯集の士民のために抑留せらる。」と載っている。また、長岡宿に集まった改革激派に対し、激しく抗弁した事が「前木正行回顧録」にも記載されている。宛先である小瀬弥一右衛門についても、「茨城県幕末史年表」の安政5年9月「水戸藩家老安島帯刀、三条家諸太夫丹波正庸の帰京に際し、ひそかに藩士荻信之介、同小瀬弥一右衛門を遣わし、時事匡正の策を致さしむ。」とある。これらの書簡は、この時代のことについて、情報を伝え合っていたものだろう。

上の書状は判読が難しいが、「・・・扨一件如何いよいよ御話しの通りに参り候哉、又破れ候や・・・少しも御ゆるみ之無様・・・」と切羽詰まった状況が伝わってくる。