37 水戸藩古地図「四郡色分水戸御領分全図」 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 所蔵している長久保赤水図や伊能図の他には、下記の「四郡色分水戸御領分全図」がとても興味深い。まず、伊能図にも劣らない地図の正確さがあり、また、村名、境界、街道等が詳しく載っている。手書彩色の大変精密なものである。四郡とは水戸藩領の地方統治組織である郡奉行の管轄地域を四つに分けてあることを指す。天保12年に改組された東西南北の組それぞれに色分けしている。またこの時期、水戸藩では村の統合が行われており、新しい村名が村界とともに図上に落とされ、凡例には合村状況が郡別に詳しく示されている。

 この地図が書かれた天保15年(1844年)は、幕府により斉昭・東湖らが処罰された年(弘化甲辰の変)であるが、それ以前の天保10年に斉昭は将軍家慶に意見書を呈し(戊戌の封事)、11年に水戸に帰藩、追鳥狩を行い、12年には弘道館落成、13年には偕楽園を開き、検地完了するなど、水戸藩の天保の改革を次々と実施した時であった。しかし、結城寅寿を中心とする門閥派と改革を推進する藤田派(東湖らの改革推進派)とは激しく対立するようになっていった。




デフレからの脱却を旗印に、アベノミクスを推進する自民党の阿部政権であるが、国・地方財政赤字は深刻であり、市町村や学校の統廃合が進み、人口は減少している混沌とした現在の状況と共通する時代であった。

この地図の正確さは現在の地図を重ね合わせるとよく分かるが、日立には、諏訪の風穴や水穴までが記載されているのである。水戸藩が作成した明細地図の縮小版であると思われるが、この当時このような地図は、伊能忠敬図と同様持ち出しが厳しく禁じられていた時代であったろう。本来の大きさの三分の一に縮小し机上に広げられるように作成したこの手書の地図の正確さには驚くばかりである。