山野辺義観は、山野辺義質の長男として江戸で生まれる。義質は水戸徳川家の一門から養子入りしており、義観(享和3年(1803)~安政6年(1859年)は、血縁上は藩主徳川斉脩・斉昭兄弟の又従弟にあたる。母・比佐は常陸笠間藩主牧野貞喜の娘で、義観ものちにおじにあたる笠間藩主牧野貞幹の娘・静を妻としている。
8代藩主斉脩は子女なく、後継ぎも決しないままに病重篤になり、継嗣問題が起きたとき、義観を頭首とした藩士40余名は許可を得ずに水戸を発し、江戸において、敬三郎を後継ぎとするよう嘆願、斉脩の死後、遺書により敬三郎(斉昭)が藩主に決まった。天保7年に、父義質の隠居により、家督を継ぎ、一万石の家老となり、海防惣司を命じられた。そして、助川(日立市助川町)周辺に知行替えとなり、同年12月建設された助川海防城に家臣と共に入城した。これは斉昭の天保の改革の一つであり、いかに斉昭の信頼が厚かったかが分かる。彼の元の住居は、水戸城の大手橋の前にあり、弘道館建設のためもあったのだろう。下の天保時代の地図に載っている山野辺主水正がその屋敷であり、現在の弘道館正門・正庁の位置にあった。
助川海防城は、当時たびたび現れた異国船に備える目的で作られた館群で、あったが、天狗諸生の戦いにより、消失してしまった。下の写真は、その義観の書簡で、二つ折りの和紙に書かれたものである。
改年之御吉慶不可有 休期御坐目出度申納候 弥御安康被成御越年 珍重奉存候、年始御祝詞 而早々貴書被下忝 仕合奉存候、右御答迄ニ如此 御坐候、恐惶謹言 山野辺兵庫 正月十九日 義観(花押) 石河徳五郎様 参人々御答 |
ニ白春寒退兼候得者 被成御厭候様奉存候(小子) 義無事ニ加年仕候事ニ 御坐候、其後者御不音ニ罷通 候段御用捨可被下候 一当時ハ少々は手すきも 御坐候得共打続俗事ニて 困り申候 一当ニ月より四月ハ高田馬場 ニて流鏑馬御坐候由見物 致度者ニ御坐候、余は追々 可申上候、以上 |
*石河徳五郎(1796-1857)、徳川斉昭の藩主擁立に活躍、そのもとで勘定奉行、郡奉行として藩政改革をたすける。天保15年、斉昭の謹慎処分を解くよう幕府に運動を行った。安政元年反射炉の建設担当者である。