36 山野辺義観の書簡 | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 山野辺義観は、山野辺義質の長男として江戸で生まれる。義質は水戸徳川家の一門から養子入りしており、義観(享和3年(1803)~安政6年(1859年)は、血縁上は藩主徳川斉脩・斉昭兄弟の又従弟にあたる。母・比佐は常陸笠間藩主牧野貞喜の娘で、義観ものちにおじにあたる笠間藩主牧野貞幹の娘・静を妻としている。

 8代藩主斉脩は子女なく、後継ぎも決しないままに病重篤になり、継嗣問題が起きたとき、義観を頭首とした藩士40余名は許可を得ずに水戸を発し、江戸において、敬三郎を後継ぎとするよう嘆願、斉脩の死後、遺書により敬三郎(斉昭)が藩主に決まった。天保7年に、父義質の隠居により、家督を継ぎ、一万石の家老となり、海防惣司を命じられた。そして、助川(日立市助川町)周辺に知行替えとなり、同年12月建設された助川海防城に家臣と共に入城した。これは斉昭の天保の改革の一つであり、いかに斉昭の信頼が厚かったかが分かる。彼の元の住居は、水戸城の大手橋の前にあり、弘道館建設のためもあったのだろう。下の天保時代の地図に載っている山野辺主水正がその屋敷であり、現在の弘道館正門・正庁の位置にあった。





 助川海防城は、当時たびたび現れた異国船に備える目的で作られた館群で、あったが、天狗諸生の戦いにより、消失してしまった。下の写真は、その義観の書簡で、二つ折りの和紙に書かれたものである。








 


改年之御吉慶不可有

休期御坐目出度申納候

弥御安康被成御越年

珍重奉存候、年始御祝詞

而早々貴書被下忝

仕合奉存候、右御答迄ニ如此

御坐候、恐惶謹言

 山野辺兵庫

正月十九日 義観(花押)

 石河徳五郎様

 参人々御答





 


ニ白春寒退兼候得者

被成御厭候様奉存候(小子)

義無事ニ加年仕候事ニ

御坐候、其後者御不音ニ罷通

候段御用捨可被下候

一当時ハ少々は手すきも

御坐候得共打続俗事ニて

困り申候

一当ニ月より四月ハ高田馬場

ニて流鏑馬御坐候由見物

致度者ニ御坐候、余は追々

可申上候、以上



*石河徳五郎(17961857)、徳川斉昭の藩主擁立に活躍、そのもとで勘定奉行、郡奉行として藩政改革をたすける。天保15年、斉昭の謹慎処分を解くよう幕府に運動を行った。安政元年反射炉の建設担当者である。