35 日下部伊三治の書簡 | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 県立太田第一高等学校の校舎の奥に、国の重要文化財にもなっている旧講堂があり、東日本大震災で屋根や壁に大きな損傷を受けたが、既に復旧し、百年以上前の堂々とした偉容を誇っている。また、図書館の脇には、同窓会によって建てられた「益習会館」があり、授業や課外、合宿などに大いに利用されている。この「益習」の名は、水戸藩の太田郷校「益習館」に由来しているが、「益習」の語は、中国宗代の「小学」という書物にある「朝にし暮れにい」という箇所から付けられたものである。

太田郷校「益習館」は、天保8年に徳川斉昭の水戸藩天保の改革により、庶民の教育の場として設置され、地方医師の研修や儒学的教養を修める教育が行われていた。益習館の跡地、太田小学校の校舎裏には、大きな「日下部先生父子事蹟顕彰の碑」が震災で倒れることなく立っている。この郷校の初代の館守が、薩摩藩を脱藩し、水戸藩領であった伊師村(現日立市十王町)で私塾を開いていた日下部連(むらじ)であり、父の死後、天保10年には幹事に、安政2年に館守になったのが長男の日下部伊三治(いそじ)である。その年、薩摩藩主島津斉彬の求めにより、江戸の薩摩藩邸に入っている。その後、尊皇攘夷運動に奔走し、安政の大獄により、京都で捕らえられ無残な死を遂げた勤王の志士である。顕彰碑は二人の功績を讃えて、血統の血を引く東郷平八郎が題を、徳富蘇峰が碑文を書いている。

 安政2年12月に、益習館を出立し、薩摩藩に戻っているが、この年は大変重要な年である。江戸で安政の大地震があり、藤田東湖や戸田忠太夫が水戸藩江戸屋敷で圧死している。また、黒船の来航の後、「日米和親条約」が結ばれた直後で、日本中が大騒ぎになっている時であった。

 益習館では、北郡奉行高橋多一郎、南郡奉行金子孫二郎、弘道館訓導等を招いて、盛大な大会が開催された年である。この大会をはなむけとして、彼は、益習館を後にしたのだろう。また斉昭は海防参与として幕政に関わっていた時であり、水戸藩内では、門閥派より、改革派が優位の時であったが、次第に暗雲が立ちこめ、安政の大獄、桜田門外の変、天狗党の乱へと向かっていく時代でもあった。さて、日下部伊三治の書簡を見てみよう。












福田五次郎様 日下部伊三治

案下


先日出府に付参上之処少々御風気之由不被成拝顔残念御座候        扨乍恐先太夫様御霊前江微少之奠供奉呈度御序之時御供可被下奉願候将当夏ハ雅兄より御餞別被下千万忝奉存候此麁(粗)葉御国産付出府之印迄に呈上仕候御笑留被下候ハハ幸甚奉存候何も拝話に可進候

先ツ匆々頓首

十二月廿七日


『口語訳』

 「福田五次郎様 日下部伊三治 先日江戸に上がるために、お寄りしたところ、少しお風邪をひかれていたようで、お顔を見ることができなくて残念に思っております。さて、恐縮ですが、先の太夫様のご霊前に、わずかばかりのお供えをあげていただきたく、ついでの時にお供え下さいますようお願い致します。まさに今年の夏は、あなた様よりご餞別をいただき本当に申し訳なく思っております。その粗茶は国元のものなので、上京の印に差し上げます。笑ってお受け取り下されば大変幸せに思います。いずれにしても、またお目にかかってお話をしたいと思っています。早々、頓首 12月27日」


 


 この書簡は、安政2年、益習館を去って、薩摩藩士となって江戸に出府したときにお世話になった人々を訪問し、お礼の品(薩摩の茶)と共に送った挨拶状ではないかとおもう。何とも思いやりに溢れた愛情深い手紙ではないだろうか。