人の痛みがわかるということ | 目覚めるための心のlesson

目覚めるための心のlesson

あなたの頭の中で巻き起こっている不安も批判も
「自分は間違ってない」と主張している思考もすべてが
「本当のあなた」とは何の関係もないとしたら。。。。

 

 

 

 

 

 

例えばそれは
両親が言い争いをした後に
泣いてる母親を慰めたことがきっかけで起こります。
 
 
 
 
お母さんがお父さんへの怒りを抑えているのを
日常的に感じ続けた子供は
お母さんが抑えていた
「お父さんへのお母さんの怒り」のエネルギーを 
自分の夫や恋人、子供や友人に対し、
ぶつけてしまうことが起こります。
 
 
 
 
 
あるいは
実際には知らなくとも
亡くなった親の兄弟や姉妹に似てる
と言われたことで
その人が感じていたであろう感情を作り出し
自分のことのように感じ 表したり
その人の様に生きてしまうことも起こります。
 
 
 
この心理現象の強い力に
幼い子供たちは抵抗することができません。
 
 
 
こうして巻き込まれた子供たちは
もはや「純粋な自分」で生きたり応えることができず
自分の本当の感覚も感情も行動も選べず
自分のことだけでなく他者こともわからなくなります。
 
 
 
美しいものを見た時
美しいものに触れた時
私達の心は思わず震え 感動し涙が自然に溢れ出します。
 
 
この現象に巻き込まれていた人は皆
周りの人が笑っているのを見てから
これは面白いのだと考えて自分も笑っていました。
周りの人が泣いているのを見てから
私も泣くようにしていました。
目の前の人が怒るのを見てから
私が悪いのだ、と考え謝っていました。
という言い方をします。
そして
このようなお話をするケースでは
「子どものころの記憶がない」と語る人が
少なくありません。
 
 
 
 
私たちは皆
自らに生じる感情や感覚に従って
出来事に意味づけ=説明を加え 記憶という記録をしていますが
出来事によって本当の自分として生じた感情や感覚が
無かったことになる=解離という方法で処理されているとき
解離性健忘という記憶のない状態が起こります。 
 
 
 
思いやりや、やさしさ、人の気持ちをわかること、や
例えば 人の痛みをわかること、は
教えられたり、習ったり、学んだり、本を読んだりして
手に入れるもの、訓練するもの、練習で身につくものと
考えているのだとしたら 
生きていくことが とても難しいく、
大変につらく感じているかもしれません。
 
 
 
 
他の誰かとして 生きている人は
自分の気持ちがわかることができないために
他者の痛みも気持ちもわかることができないのです。
 
 
 
 
大切な家族も
かけがえのない子供も
ありのままには見ることができず
違う世界の人のように見えるという、
全てがゆがめられて見え ゆがめられて感じます。
 
 
 
本当には パートナーの気持ちに寄り添いようがない、
本当には 子供の気持ちがわかりようがない、
何故なら 本当の自分として生きていないことで
本当の自分の感情も感覚も痛みも悲しみもわからないから、
というのが真実です。
 
 
 
 
例えば
母親から父親の愚痴を聞かされて育った男の子が
父親よりももっと母親の良い夫になろうとすることが起こります。
この場合、
この子が大人になった時
家庭での自分の夫の役割や父親の役割に失敗したり
人生に失敗したりすることはよく起こります。
 
 
 
 

本当の自分として生きていない人は

心から思わずあふれでる感謝を感じることができず
助けてもらっていても
ありがとうを言わないですむように 
相手を批判し、相手に怒りを感じようとし
親切にされたり好意を示されたとき
怒っています。
 
 
 
 
これを
「自分に価値がないと思っているから」
という解釈では
既に受け取っているという事実と
ずれてしまい 感謝を感じる日はやってきません。
 
 
 
 
事実は
「見ようとする」「聞こうとする」「分かろうとする」
努力や頑張りで 変えることができる
と考えるのかもしれませんが
物事の多くは
自分が何をするかしないかではなく
何をしてもしなくとも
本当の自分なのか、どうかだけがわかっていること。
 
 
 
子どものころから
誰かをあやす立場に自分を置いて
「いい子」「いい人」として生きてきた人には
大変わかりやすい特徴があります。
 
 
 
本当は、私には
人の気持ちがわからない、
共感する能力が無い、
人を思いやる、ということがわからない、
人にやさしくする、というのが
本当はどうすればよいかわからず
いつも
相手が何を望んでいるか、
周りがどのような反応をしているのか、を見て
 
常に自分がどのように反応し
どうふるまえばよいのか、を考えています。
 
 
 
のように話され、思い込んでいた人が
誰かの立場から解放され 
自分の本来居るべき居場所に戻ることができると
やがて
状況をコントロールしようとしなくとも
気づいたら、何もかもうまくいくようになっていた、や
 
自分の身体からのシグナルや疲れに気づきやすくなり
すぐに対処出来る様になったことで身体が丈夫になった
 
等々
見えていたこと、聞こえていたこと
感じていたことに気づいた、とお話しする人が多くいますが
こちらのほうが 本来のあなた。
 
 
 
 
それらは
これまでもそうだったけれど
真実を
「見ることができなかった」
「聞くことができなかった」
「感じることができなかった」にすぎません。
 
 
 
 
自分にとっての適切で自然な感情の場合
例えば「悲しさ」「怒り」「不安」について
善も悪もなく
正義や道徳を振りかざして
自分の言説をことさらに守る必要がありません。
本当の自分として
自らに生じている本物の感情であるなら
しっかりと感じ切っていこうとするプロセスで
自然に解消していき
次に必要な行動が自然に生じてくるもの。
 
 
 
ですが
誰かとしての感情を表現しようとする時
多くの場合
自分自身の感情が切り離された時の心が傷が刺激され
吟味する余裕がなく衝動的に
ことさらに「正義や正しさ、知識」を振りかざして
周りを説得したくなったり
切り離したことで傷ついた自分の不憫さの正しさや
衝動的な反応の正しさを

分かってもらう必要を感じるために 
他者の同意や共感を強く必要としています。
だけでなく
自分の純粋な感情ではない=偽物の感情であるため
これらの感情は解消することなく
同じ感情が生じる状況を繰り返し作り出し続けます。
 
 
 
もしも
自分がことさらに
強く正しさを主張している時
あるいは
面倒くさく感じさせて特定の物事を避けている時には
もしかすると
恐れている現実に向き合うことを避ける衝動に
自分が自分に騙され
今の現実に相応しくない感情に囚われていたり
誰かの感情を肩代わりしていたり 
誰かに代わって表現してるかもしれない、
可能性があるのだと 知っていることで
吟味する機会が生まれ
解決の道が見つかるかもしれません。
 
 
 
悩みや問題というものの多くが
この様に 自覚できない
心理現象の影響を受けていることが多いのです。