愛と喜びと豊かさの約束 | 目覚めるための心のlesson

目覚めるための心のlesson

あなたの頭の中で巻き起こっている不安も批判も
「自分は間違ってない」と主張している思考もすべてが
「本当のあなた」とは何の関係もないとしたら。。。。

 

 

 

人には皆
赤ちゃんとして生まれてからの
幼い子供時代があります。




子どもとの関係、子育てには
「親自身の心の問題が顕著に表れます」




子どもたちは
親の
日常の過ごし方や、
様々な状態の自分とのかかわり方を見ながら
自分のふるまいを見つけようとしているように見えます。




親の反応を見て 親は
この家族の一員でいるためには
何をして、何をしないでいると資格があり
何をして、どうなると資格を失うと決めているのかを
率直に表現します。



親自身が 混乱のある親の下で育っている場合
間違いなく子どもたちにも混乱が引き継がれ
一貫性のない感情や思考から生じる
一貫性のない混乱した行動が生じます。




子ども達の過ごし方に表現される
その子供の在り方を見る時
その子供のご両親のそれぞれが
心から自分に生まれてよかったと
感じながら生きているかどうかが現れています。




理屈、理論、知識、技術
言い聞かせや説得や納得ではたどり着くことのできない
自分の身体(のように感じられる)の奥から
尽きることなくこんこんと湧きあがる
「自分に生まれてよかった」という感覚をもつ
この境地は
幼子のような純粋な心でありながら
老賢者のように言葉にならない命の知恵を備え
何百年もそこで生きている大樹のような
静けさと威厳に満ち安心感があり
全身にみなぎる生きる力として
自分の周りも巻き込み
全ての命あるものに対して
自分自身の人生の全てに
そして何よりも

人類の未来である子どもたちに

愛と喜びと豊かさを約束します。



愛について考えてみます。



人は一人で生きることはできません。



人間関係の中でも
特に愛する人との関係が 誰にとっても人生において
最も重要なものと感じられます。



男と女が互いのそのままを敬い合い愛し合うことで
それぞれの命とともに贈られた贈り物としての
お互いの男性性と女性性を お互いに贈り物として与え合い、
受け取り合うことで【新たな命】の誕生という結果を生みます。 



命の誕生という奇跡により
子育てという学びと心の成長と喜びの機会が与えられ
奇跡によりもたらされた時間の共有によって育まれる
互いの異性性へ敬意や、尊重し合え、弱さを補える関係は
この世で最も尊いものといえます。




ところが 人によって
その大切であるはずの関係には

天国と地獄ほどの差があります。




例えば、
多くのカップルは
それぞれの子ども時代の古い家族でいるための
資格を失う恐れによる
潔白さを保証するためのこだわりや批判、
あるいは
古い家族を裏切った気分になる罪悪感による
衝動や不安が邪魔をして
心を開いて意思を通わせ、わかり合うことが善いのだということは
みんな頭では知っていて、わかっていたとしても、
理想のようになろうと努力したとしても
実際には 理想通りにならないことのほうが多いのです。



 結婚式が予定されると
インドのサティヤ・サイ・ババはいつも
「ベリーハッピー・ベリーハッピー(嬉しい、嬉しい)」
と言って祝福されていたそうです。

ある日 彼の信者の一人が
「そうですね、二人は結婚しても この幸せがずっと続くでしょう」と言うと

サイババは

「最初からずっと幸せ?私はそんなつもりで言ったのではない。
彼らは最高の紙やすりで削るようにお互いにエゴを削り落とすだろう。
そうすれば二人は本当に幸せになれると言ったのだ。」
と訂正したのだそう。



とはいえ これはたいていが
二人で取り組み合う(よく似た課題であることが多い)ために
結ばれているように思えるのですが気づいている人は
いないのかもしれません。




エゴとは

他者に対して自分のニーズを満たすことを

優先させようとする心の態度、
なのですが
本当の自分を犠牲にしてきた苦しみから
「私を優先してもらわないと価値が無い!」という
強い恐れを生じる欠乏欲求であるため
その望みは
「正しいこと」のように感じさせられ=正当化され
「相手が悪い(心の奥では親が悪い)」という認識に
心が圧倒されてることに気付かず思いに支配されることで
冷静に現実的に
自分自身を振り返られない・自分で問題に対処できない
自分に責任が持てないという心理現象が継続します。



これが
「モラハラ」や「DV」、「暴力」を生じさせます。



相談にこられるケースの多くに
自分の期待に応えない相手が悪い、という考えに支配され
自分の期待が不適切であることに気づかない、ということが起こり
自分の思い通りに「相手に変わってもらうこと」にしか
意識が向いていません。



夫婦、親子関係だけではありません。


これは全ての人間関係に よく見られ
相手(子どもや友人、上司、部下、仲間)に
果たせなかった自分の子供時代の望みを叶えられるように
感じてしまう心理現象が引き起こされるために必死になります。




認めて!
優しくして!
褒めて!
許して!
仲良くして!
感謝して!
評価して!

安心させて!・・・・・満たして! ・・・ etc



相手を自分の思い通りにコントロールし
自分の欠乏を満たしたい、という欲求は
頭の中では 過去の記憶の中に生きている状態であり
子供の頃当時の 満たされない子ども心を満たそうとする
過去の感情への対応でしかありません。



それらの全てが
そもそもが非現実的なことなのにもかかわらず
人間の脳は簡単に錯覚します。



「非現実的」というのは つまり現実ではなく
実際の目の前の相手に対する期待ではないのだということ。




私たちは
幼いころから言葉にならない、
身体の奥深くで(愛を)理解してはいるものの
実際の行動を阻む「恐れ」として
身体のどこかに凍結保存されている感情のエネルギーに巻き込まれ、
翻弄されることで命の知恵として理解されていたものを
信じられなくなります。




力でねじ伏せ
目の前の相手に自分の期待に応えさせたとしても
おそらく あなたは満足することが無いだけでなく
相手の努力、痛み、愛を与えられていることさえ
気づかないまま もっともっと、という欲求が
尽きることが無いことで気づくこともできます。




欠乏欲求から作り出される活動では
例え とても豊かになったとしても 「もっともっと足りない」
「まだまだ大丈夫だと思えない」気がして
心や身体を顧みることなく
働き続けるワーカーホリックという症状や
人助けに奔走する救世主症候群、
強い刺激で恐れをマヒさせるための様々な依存、
ビジネスセミナージプシーや資格収集家、
などのように現れていることも多い。



錯覚(誤った役割による投影や転移、逆転移という心理現象)は
周りを巻き込みます。



これが依存関係という「支配ー被支配」の関係を生じさせます。



「あなたのため」という言葉の威力を思うと
どのような人間関係にも
このような危険は潜んでいるのがわかります。




ですが
この関係では それぞれが相手の不適切なニーズに夢中になることで
自分を幸せにするための力が消耗し 現実に生きること
現実を把握すること、自己の成長に集中することができずに
誰一人幸福になり得ません。



皮肉にも
大好きなあまり、愛するあまり・・というこの感情こそが
大切な人達との関係を破壊してしまうのです。



私たちは
「愛」を どれほどわかって 口にしているのでしょうか?


愛するというのは どうすることを言いますか?


あなたは

自分が愛されているということを
どのように知るのでしょうか?