人は理解できる範囲の情報だけで判断する | 無名弁護士の司法革命

無名弁護士の司法革命

裁判での解決では遅すぎる。
争いが起こってからでは遅すぎる。
どうすれば争いがなくなり、どうすれば人は幸せに生きられるのか。
本気で、本音で話します。
新しいモノの見方、新しい気づきがあれば、
人生も世の中も大きく変わるかもしれません。

犯罪を犯した人の責任能力が争われる事件があります。
その場合、まず医学的に見てまず精神病なのかどうかが判断されます。
そのうえで、ことの善し悪しを判断する能力(是非弁識能力)が十分にあったか、
その判断に従って行為を制御する能力(行為制御能力)が十分にあったかが判断されます。


これらを判断するために、鑑定人尋問や被告人質問が行われたりします。
これらを踏まえて、
①精神病の有無、程度
是非弁識能力の有無、程度
行為制御能力の有無、程度
が判断されます。


ということは、裁く側は、鑑定人の証言や被告人の供述が正しいかどうか吟味する必要があります。
例えば、鑑定人がこの被告人は重度の統合失調症に罹患していると証言した場合、何を根拠にそう判断したのかをチェックし、その判断が医学的に正しいかを判断する必要があります。
また、例えば、被告人が支離滅裂なことを供述したような場合、なぜそのような供述が出てくるのか、病気を装っているのかなどを判断する必要があります。


無名も何度かこの類の事件を担当しました。
そのたびに、関連する精神医学の専門書を読んで勉強しました。
鑑定人の証言を信用できるかどうかをチェックするには、それなりの知識がないと判断しようがないからです。
被告人の供述も、何度も何度も接見し、どんな表情で、どんな言葉で何を供述するか、その供述内容はずっと同じか変遷しているか、何らかの精神病の症状が出ていると言えるかどうか、とにかくいろいろ観察したり、勉強したりします。
被告人の言動や過去の症状、病歴等、とにかく判断材料になる情報を大量に得たいと思います。


それでも、よく分かりませんでした。


一生懸命勉強しても、何度も何度も被告人を観察しても、大量の情報を読み込んでも、本当のところ責任能力があるかどうか正確に判断できませんでした。


さて、裁判員裁判で責任能力の有無や程度が争点になることがあります。
裁判員や裁判官の中には、聡明で判断力のある方もいらっしゃることでしょう。
でも、裁判員裁判で裁判員や裁判官が目に触れる医療記録や情報は極めて限られます。
医療記録その他もろもろの関連資料を裁判員や裁判官が直接目にすることはあまりありません。


なぜかというと、
裁判員に分かりやすくするためには、膨大な資料を書証で提出するわけには行かないから、だそうです。
裁判員に対して、連日、難しい医学用語の飛び交う証人尋問を行っても理解されないから、だそうです。

分かりやすく整理した情報を提供することで裁判員の判断が可能になるから、だそうです。


つまり…


裁判員に理解される情報だけで裁く、ということです。
裁判員に理解されるような情報に加工して出してこい、ということです。



これは、ゲームとしてはとても面白いです。
なぜなら、上手に情報を選別し、裁判員に理解されやすいストーリーを上手に組み立てられると勝訴する可能性が大きくなるからです。
今まで、検察官や弁護人は、例えば、積み上げたら1メートルくらいに及ぶ記録や資料を精読しながら、重要事項を漏らさず主張しようとしてきたのです。
でも、今や、最終的には、それを口頭で20分くらいで分かりやすく説明することが求められています。
例外はあるにせよ、検察官の意見の説明である論告や、弁護人の意見の説明である弁論の時間は、20分~30分くらいの枠に収めるように要求されます。
無名も何度か裁判員裁判を担当していますが、この作業は結構大変で、かつ、結構面白いです(笑)
複雑で大量の情報をシンプルで少量の情報に整理すると気分がいいのです。
シンプルに整理できた情報によって、事件の本質を分かったような気分になれるのです(笑)




でも、本当にこれで真実が明らかになるのでしょうか?
もともと1000の情報をどう判断するかという問題だったのに、検察官がチョイスした10の情報と弁護人がチョイスした10の情報を競わせ、どっちが納得できたかを判断させてる、みたいな感じです。
これって、本当に大丈夫なんでしょうか??


あ、断っておきますが、無名は裁判員裁判賛成派です。
理由は、前述したような面白さがあるからです。
でも、特に、責任能力が争われるような、多くの情報、多くの専門的知識を通して判断すべきことを、制限された情報だけで裁判員の皆さんに判断させることはどうなのかな、と感じています。


生の情報を理解しやすいように整理するということは、生の情報とは別物の情報を加工制作しているということです。
整理しようもないぐちゃぐちゃの複雑な生の情報をどう判断するか分からなくなると、人は、整理されたフォームやストーリーの枠に埋め込みたくなります。
そうしないと分からないからです。
そうしないと理解できないからです。
理解出来るように加工しないと話が進まないからです。
裁判員に理解してもらえなければ話が進まないのと同じです(笑)


何が言いたいかというと、こういうことです。



1、ありのままの生の事実は、人間がいろいろと判断しようがないくらい複雑で大量の情報から成り立っている。
2、それを判断しようとすると、ありのままの生の事実をいろいろと加工したり整理したりしてしまう。
3、その結果、理解できた情報だけで判断してしまう危険がある。
4、それは裁判員裁判だけじゃなく、僕らの日常の中で頻繁に起こっている。


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