子供達がまだ初級部の時、
制服が小さくなる、
しかし新しく新調するのは負担がかかる、
ウリハッキョオンマ達のラインに「誰かもう使わない制服無いですか?」
と打込むとすぐに
「あるよ、明日うちの子に持たすから」
と返信がある。
ウリハッキョは地域の在日コミュニティの揺りかご、삶과 배움의요람だなぁとつくづく思うワケで、それが代々受け継がれて来ているわけで正に「イオ」なワケなんです、
我々の時代、
制服と言えば学ランに太いズボン、
(以下、不適切な言葉が使用される場合がありますが当時の雰囲気を忠実に伝える為、敢えて直さずにそのまま使用させていただきます)アイパーかパンチパーマかニグロか角刈り。
当時ヤンキー業界のファッションリーダーだった朝高生のそれは明らかに日本のヤンキーとは一線を画していた。
特に東京朝高生のファッションは第一にハードボイルド。
髪型はビッチーッと決めた。
学ランは必ずカラーの高さは4.5センチ(東京は当時生徒と教師との話し合いで4.5センチまでならという妥協案が成立したが東京以外の朝高はもっとカラーが高かった)フォックと前ボタンを全てキチンと締めて靴下は必ず黒のナイロンみたいなヤツ。
「ハリスの風」の石田国松みたいに学ランの前ボタンを全部外して登校するなんて考えられない!ってゆーかダサい!
あくまでも正統派、着崩すなんて考えられない!
イギリスのトラディショナルの様にルールが厳格なのだ。
私はこれを密かに「朝高トラディショナル」、鮮やかな朝の陽光の様なファッション、「アサトラ」と呼んでいる。
サッカー部の1年生以外は必ず革靴。我々の頃はオペルカ、ドンキー、マレリーが3大ブランド。
ちなみにサッカー部の1年生は丸坊主(バリカンでなければならない)に運動靴で校門に入った瞬間走って1年生の校舎に行かなければならないと言う不文律の掟があった。破ったものがいた場合、例えばバリカンでなくハサミ(何故バリカンじゃなきゃだめなのか全く意味不明、でもこれがすぐバレるんだ、バリカンとハサミ刈りって実は一目瞭然なんだよね、ある同級生は「五分刈りハサミで!でもなるべくバリカンで刈ったみたいにしてください」って、ならバリカンでいいじゃん!)で丸坊主してきたり校内を歩いたりした事が発覚した場合、2年生によって1年生サッカー部員全員が居残りでしごかれる。
革靴に白いソックスを履くと先輩からめっちゃ怒られる、
特に日本学校から編入してきた生徒がやりがちで、そんな時は先輩達から「お前チョッパリか!」と言われたものである。
この「お前チョッパリか!」という言葉は当時の我々にとって最上級の侮蔑語、最後通牒で、宗教裁判で「異端」と宣告されるほどの重みがあったのだ。
「お前チョッパリか!」のその先にあるのは「追放」、アダムとイヴが大天使ミカエルに追放される「失楽園」の絵を私はよく震えながら連想したものである。
今だから言うけど実は私も何度か白いソックス履いて登校した、
そう、わたしは「隠れチョッパリ」だったワケで、
え?なんだおまえ?だって?
だって、ナイロンより、
白い綿のソックスの方が履き心地が断然いいからだよ〜!!
Gパン(なんか今はデニムって言うんだってね?大学生の息子にGパンって言ったら、ダッサ!って言われたけど、え?え〜?!って感じだよね?)なんかは絶対に履かない!!
Gパン履いてる奴、ちょ〜気持ちわり〜!!
と本当に思ってた、そんな奴と友達になれね〜!
とまじ思っていた。
しかし、他地方の朝高生がGパンを普通に履いていると後に知った時は世界が崩れる程の衝撃を受けたものである。
ちなみに大阪朝高は校則で運動靴と決められていて、その昔、大阪朝高生が革靴で日本の学生を蹴ってボコボコにして重症を負わせた、とか、死に至らしめたというのがその理由らしいが真意の程はわからない、日刊ゲンダイに出てたリビョンヒ先生なら知っているかも?
ちなみに大阪朝高女子のチマチョゴリ制服のスカートは何故あんなに短かったのでしょうか?
あとチョゴリの襟がよくレースになってたりとか、
男女がめっちゃ打ち解けていた前衛的な大阪朝高ファッション、てゆーかイケイケ?それに対して保守的な東京朝高、ハードボイルドに固執する余り当時の東京朝高男子は他校生はもちろん同じ東京朝高の女子とも会話が出来ないという後遺症に終生悩まされる事になる。
あと、神奈川朝高のチマチョゴリのスカートのタックはなんであんなに太かったのでしょうか?
ウリハッキョ電話相談室のリビョンヒ先生に聞いてみよう!
制服パート2に続く